AWC フリー日記    / 竹木


        
#385/550 ●短編
★タイトル (GSC     )  10/12/14  07:16  ( 62)
フリー日記    / 竹木
★内容
   12月11日(土)

 文芸春秋の短期連載、角田りゅうしょう(文字不明)著『90歳の兵士達=
大和』を読んだ(音訳CDを聴いた)。点字で抜き書きした内容は、戦艦大和
の全長・横幅・排水量、戦死者数や生還者数などだが、とりわけ驚いたのは、
「昭和二十年四月七日 午後二時二十三分、鹿児島県ぼうの岬沖(文字不明)
の、北緯30度43分・東経128度4分の海域で沈んだ」という説明書きで
ある。その日については、私にも忘れられない記憶があり、自分史や随筆の
中にも色々書いた。

  −−−−−−−−−−−− 引用ここから −−−−−−−−−−−−  
 昭和20年4月7日、その日は朝から空襲警報で、盲学校の中庭に掘った
防空壕(間に合わせの浅い縦穴)に避難し、頭の上から戸板と布団を
かぶって、B29の爆音におびえながらじっとしゃがんでいた。
 午後何時頃だったろうか? 「OAK君、OAK君、本部まで来てください」と
メガフォンで呼ばれ、日頃呼び捨てなのに何故君づけなのか、不思議に思い
つつ防空壕の外に出た。上級生に連れられて渡り廊下まで来ると、そこに姉が
居たのには驚いたし、大変嬉しかった。地獄で仏とはこのことだ。しかも、
「今からうちへ帰るよ」と言うではないか! こんな大空襲の中、何故突然
故郷から迎えに来たのか、私には全然理由が分からなかったが、あれは母が
危篤だったからである。肺結核で4年の間寝たり起きたりしていた母の病状が
急に悪くなったのであろう。
 尾張一宮から汽車で8区間、大府駅で降りて、姉の漕ぐ自転車の荷物台に
またがって、中手山村のわが家まで約20分かかる。その間、姉が繰り返し
繰り返し私に注意し念を押したのは、次のことであった。
「うちに帰っても、おっかちゃんに決して甘えてはいけないよ。わかったね。
ちゃんと約束できないのなら、もう連れて帰ってあげないからね。よく覚えて置きなさ
い」

 それから丁度一週間、私は故郷で楽しい日を過ごし、14日に寄宿舎に
戻ったが、さらに一ヶ月後にも、やはり姉が迎えに来て、そのときは二日間
だけ家に滞在した。母の病状が度々悪化し、家族としては、末っ子の私を
「死に目に合わせてやりたい」と考えたに違いない。けれども、当時の私には
全くそれを察することができなかった。
  −−−−−−−−−−−− 引用ここまで −−−−−−−−−−−−  

 4月7日の空襲警報は、私の記憶の中で最も長い時間だったが、ちょうど
戦艦大和が沈没した日だとは、今日まで知らなかった。
 そういえば、翌日の朝刊を広げながら父が読んでいたあの声を、今も
はっきり覚えている。
「戦艦大和、魚雷40本を受けて沈没…」
 そのとき私は兄達とやぐら炬燵に足を入れていたから、まだかなり寒かった
のだろうし、たまたま盲学校の寄宿舎から故郷の家に帰っていたために、新聞
の重大ニュース(報道)を読んでいる父の様子が記憶に残った訳である。
 その何ヶ月前だったか、サイパン島が米軍に占領された時も、私は故郷に
帰っていた。父に言われて離れの部屋から朝刊を持ってくるや、父は新聞を
受け取る前に、一面の見出しに目を留めて、「サイパン島玉砕!」と、大声で
読み上げたものだ。この日以後、わが国の本土はB29の空襲にさらされる
ことになる。
 硫黄島玉砕、沖縄本当玉砕、これらの報道は、寄宿舎(尾張一宮の借り
校舎)に居て、ラジオで聴いた。ニュースは時報に続く軍艦マーチの音楽で
始まり、アナウンサーの勇ましい声で、下記のように報道された。
「大本営発表。本日、沖縄本島は、わが軍必至の奮戦にも拘わらず、惜しくも玉砕とな
りました。わが方の戦火は次の通り。敵航空母艦、轟沈5隻・撃沈
5隻。巡洋艦、撃沈4隻・撃破2隻…。敵飛行機撃墜180機……」
 という調子で、いかにも大戦果のように報告されたため、上級生達は、
玉砕を悲しむよりも、むしろ喜んで歓声を上げたのだった。
 それらは私が小学1〜2年成の出来事で、子供だから戦地へこそ
行かなかったものの、空襲の恐ろしさや戦争の厳しさは、十分知っている
つもりである。

 [文字や内容に誤りがあれば、ご容赦ください。]





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