AWC 期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ【承前】   永宮淳司


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#571/598 ●長編    *** コメント #570 ***
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:24  (451)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ【承前】   永宮淳司
★内容
 八島が唐突に言った。部下の発言に、飛井田は内心、どきりとひやりを同時に味わっ
ていた。いつかタイミングを見計らってぶつけてみるかと頭に浮かんだ質問を、八島が
もう口にしてしまったためだ。
「おいおい、八島君。職業上の秘中の秘というやつだろう、それは。仮にそんなトリッ
クがあったとしたって、我々にこんなところで打ち明けたりせずに、作品で使うだろう
さ」
「ふふふ。札幌にいながらにしてと言われたら、遠隔操作しかなくなるでしょうね」
 飛井田がたしなめたというのに、小野寺は面白がっているのか、かすかに笑んだ。
「私も推理作家として、普段から色々想像はします。スマートヘリ、いわゆるドローン
が使えないかとか、スマートスピーカーでロボットを遠隔操作するとかね。でも、愛子
が殺された事件は、確か凶器が行方不明になっているんじゃありません?」
「ご存じなんですか。そんな発表したかなあ」
 いい機会だ、飛井田ははったりをかました。
「発表はされていませんけれども、言葉で匂わせているじゃありませんか。凶器は刃渡
り二十センチ前後の刃物という表現が新聞記事に出ていたから、類推すれば凶器は見付
かっていない可能性が高いと判断したまで」
 理路整然と説明した相手に対し、飛井田は後頭部に手をやりながら、「あれ、そうで
したか」ととぼける。
「さあ、そろそろ引き上げるとしようか、八島君」
「え、あ、はい」
 腰を上げた飛井田に続き、八島も立ち上がる。「お借りしたカメラなんかを忘れない
ように」と部下に注意をしてから、小野寺へ向き直る。
「どうも朝からお邪魔しました。お仕事に精を出してください」
「刑事さん達も。こんな私でも、愛子を殺した人物がどこにいるのか早く判明すること
を望んでいますから」
「鋭意努力しますよ」
 きびすを返し、玄関の方角へ向かい掛ける。が、すぐに足を止めた。
「そうそう、気になったことがもう一つできたんだった。小野寺さん――」
 その場で身体ごと振り返る。
「――あなたは新聞を取っておられる?」
「いいえ。ネットで検索して調べれば、新聞記事程度なら分かる場合がほとんどですか
ら」
「それじゃあ、さっき言われた新聞記事というのは、ネットのニュースサイトのことな
んでしょうね」
「……新聞記事と言った覚えがないのですが、言ったのならネットの記事のことです
ね、多分」
 簡単に軌道修正する。臨機応変さに密かに感心しつつ、飛井田は今度こそ本当に辞去
するべく、頭を下げた。

 この日の昼過ぎになって、ようやく川の流れが落ち着いた。天気そのものはだいぶ前
に回復に向かっていたのだが、川の方は山に降った雨水を流しきるまでに結構なタイム
ラグがあったということらしい。
 速やかに本格化された川の中の捜索は、同日夕刻を迎える頃に、いきなり成果を上げ
た。
 橋を基準にして六十メートルほど下流の川底で、男物のセカンドバッグが引き上げら
れた。焦げ茶色をしたぼろぼろのその中からは、どこにでもありそうな白い手ぬぐい
と、一本の包丁が出て来た。
「今日はカメラとレシートをお返しに参りました。そのついでに……と言ってはなんで
すが、詳しい話をお伺いしたいので、同行願えませんかね」
「何故です?」
 突然の申し出に小野寺真矢が表情を強ばらせるのが、飛井田達刑事にも見て取れた。
「私のアリバイなら成立することが理解いただけたと信じています」
 前回の初訪問時と異なり、玄関に入ったところでのやり取りになっている。高い位置
から見下ろす小野寺に、飛井田は逆に見上げるように睨んだ。
「アリバイとは別の問題で、小野寺さんに話を聞かねばならなくなったんですよ」
「何よ、何があったって言うの」
 右手で喉元のやや下を押さえながら、絞り出すような声で言った小野寺。
「それについては署に着いてからという訳には……いかないようですな、その様子で
は」
 小野寺は喉元にあった手をずらし、腕組みをしている。それは気持ちを落ち着かせて
どっしり構えるためという風には見えず、さりとてじっくり考えようという態度でもな
い。強いて表現するなら、ここから連れて行かれぬよう、自分自身の身体を押さえつけ
たい気持ちに表れかもしれない。
「当たり前でしょう。前来たときと今とで、何の違いがあるか分からないまま、今回は
問答無用で連れて行こうとするなんて」
「問答無用で連れて行きはしません。ここでこちらの手の内を明かし、あなたから反論
を聞いていると、大変長引きそうな予感がしないでもないので。だがまあしょうがな
い。八島君、お話しして差し上げて」
 飛井田から会話のバトンを受け取った八島は、これ見よがしの大げさな動作で手帳を
取り出し、あるページをこれまた大げさに開いた。
「昨日夕刻、現場である磯田愛子さん宅から約四十メートルの距離にある川の捜索を行
い、ある地点からバッグを回収しました。その中から、一本の包丁が出て来て、血など
が付着した痕跡が認められました。また、市浜万里奈さんのご遺体に残る傷跡と照合し
たところ、この包丁が殺害に用いられた物と考えておかしくないだけの一致を見ていま
す。血液の照合については、DNA鑑定は今しばらく時間を要するものの、血液型は市
浜さんと同じくA型でした」
「待ってください。凶器の発見は捜査の進展に違いないでしょうけれど、それがどうい
う経緯で私と結び付けられるのですか」
 メモを見ながら朗々と説明を果たした八島だったが、小野寺の物怖じしない目と言い
っぷりに、わずかにたじろいだ。若さが出たが、こちらにはきちんとした根拠がある。
だから飛井田は部下に助け船を出さずに、見守る。
「根拠があります。勝手ながら、お貸しいただいたカメラから指紋を採らせてもらいま
した」
 逮捕状の請求だって実のところ可能だろう。それを敢えて任意同行の形にしたのは、
アリバイの問題があるからだが……。
「その指紋の一部が、包丁の柄から検出された指紋と完全に一致したのです」
「――理解しました。納得はしていませんが、行きましょう」
 すぐにでも靴を履いて出て行きそうな相手を見て、飛井田は手のひらを向けた。
「そんなに慌てなくても大丈夫です。任意なのでね。必要があれば、お仕事関係の連絡
を。それと、戸締まりや火の元のチェックをお願いします」
「長引くのですか」
「場合によっては」
 容疑が濃ければ、「あなた次第です」と答えてよかった。だが、現時点ではそこまで
強い確信はない。
「……買ったばかりの精肉、冷凍室に移さないと」
 日常生活の延長のように、ぽつりと言った。

 小野寺真矢に対する任意の事情聴取が始まってものの十分と経たない内に、状況に変
化をもたらす大きな報告が入った。
「何があった?」
 呼ばれた飛井田は廊下に出て、ドアをきっちり閉めると、知らせに来た|吉野《よし
の》刑事に囁き調で尋ねた。
「例の床板の検査が終わって、結果が出たんですよ」
 対する吉野は普通の音量で答える。唇を尖らせ、明らかにつまらなげで不満があるよ
うに見える。
「ああ、あれか。どういう結果? その様子だと、読み取れなかったのかい?」
「いいえ。読み取れました。平仮名で『すずき』とね」
「はあ?」
 想像の埒外の報告を受け、さすがの飛井田も声が大きくなった。
「『すずき』ってのは、人名なのかな」
「知らんですよ。飛井田さん、あなた床の写真を手にして、『ここに血文字が書かれて
いるとしたらそれは犯人の小細工じゃない、被害者が書いたものに間違いない』と演説
をぶって、皆に認めさせましたよね。なのに、浮かび上がったのが『すずき』で、連れ
てきた容疑者が小野寺では、笑い話にもならない」
「うーん、面目ない。すまなかった」
「謝られたってしょうがない。どうするつもりですか。方針転換一つするのだって、大
変なのはお分かりでしょうけど」
「こうなることを読んで、小野寺真矢が仕組んだこと……とするには無理があるよな
あ。参ったな」
「凶器に指紋が付いていたこと、小野寺は何て答えてるんです?」
「凶器の包丁の写真を見せたが、自分の物ではない、買った記憶もないと言っている。
指紋が出たことをどう説明する?と尋ねると、包丁なら、金物屋やスーパーといった店
先で触ったかもしれない。それがたまたま市浜万里奈殺しに凶器として使われた可能性
だってあるんじゃないでしょうか、と来た」
「その偶然を認めるのはきつい。仮に、真犯人と小野寺が同じ町に住んでいるというよ
うな地理的条件をクリアしたとしても、なお偶然性が強い」
「小野寺真矢がペンネームで、本名が鈴木ってこともないし。結婚歴もなかった。あと
は……彼女の親に離婚歴があれば、かつて鈴木姓だった可能性があるか」
 自分でもあまり信じていない口ぶりになった飛井田だが、念のために調べて見ること
に決めた。
「本人に直に聞くのが早い。すぐにばれるような嘘はつかないだろう」
 吉野の言を入れて、飛井田は部屋に戻ると早速尋ねた。
「お待たせをしました。つかぬことをお尋ねするが、小野寺さんは鈴木姓を名乗ったこ
とはないですか」
「鈴木……ないです。少なくとも、物心が付いた時点では」
 その名を出されても特に狼狽はなく、むしろ落ち着き払って慎重な物言いに徹する推
理作家。
「随分、唐突な質問ですね。新たに何が判明したのかしら」
「内緒にしたいのですが。でも、賢明なあなたなら今のやり取りで分かってしまうかも
しれないな」
 試されていると感じたのか、小野寺は上目遣いになって多少の時間を取った。
「……鈴木という人物が犯人だとたれ込みがあった? いや、違うか。まさかと思うけ
れども、愛子が死の間際に何かを遺していて、それが鈴木と解読できた?」
 対する飛井田は声では答えずに、ほんのわずか、あごを引いた。小野寺は勝手に肯定
と解釈し、
「リアルにダイイングメッセージを遺すなんて、愛子も推理作家だったって訳か」
 と、愉快そうに言った。その後も饒舌に続ける。
「どんな形で遺してあったのか、教えてもらえません? 推理作家らしく、凝った物だ
ったから、警察の皆さんもこれまで解読に時間を要したんでしょう?」
「いや、それがそのまんま血で書かれた文字でした」
 反応を見るために情報を出す。
 目を丸くした小野寺から、演技のそぶりは匂ってこない。
「まさかそんな。じゃあ、どうして。私を引っ張りたいから、血文字を無視していた
の?」
「そんなことはありません。事情があって、非常に不鮮明になっていたんです。読み取
れたのが、つい今し方で、こうなりました」
「――では、帰らせていただいてもよろしいですね?」
「それは……」
「私にはアリバイがある。愛子が遺した血文字は鈴木を差し示している。包丁に付いた
指紋は、たまたま私が店先で触っただけの可能性を否定できない。これでも不充分だ
と?」
「……仕方ありませんな」
 策を誤った。完敗を認めねばならなかった。

「指紋の付き方は、包丁を凶器として使った状況と符合しているのか、だって?」
 飛井田は鑑識課を訪れ、土岐沢に教えを請うた。
「ああ。推理作家に逃げられてしまった。自分の感覚が間違っていたのかどうか、知り
たいと思って」
「指紋は矛盾はしてないよ。振りかぶって刺す場合と、まっすぐに突き刺す場合、それ
ぞれの持ち方の右手の指紋が残っていた」
「おかしなところはなかったと」
「そうだなあ。強いて言えば、力を込めて刺した割には、歪みが少なかったな。剣の達
人じゃあるまいし、包丁で人を刺すなんてことをしたら、手が多少ずれて指紋にもぶれ
が生じても不思議じゃない。だが、検出された指紋は鮮明だった」
「だからといって、凶器で使われたことを否定するのは無理ってことか」
「そうなる。凶器として使ったあと、指紋を拭ったが、またあとでうっかり触ったとい
うケースだって想定できるしな。前にいたんだよねえ。人を殺した後、ダクトか何かの
音がして死体が生き返ったんじゃないかってびびって、凶器を握り直した輩が」
「うーん。今の話を聞いてふと思ったんだが、花瓶からは指紋が出なかったんだっけ
?」
「ああ。元から犯人は軍手か何かをしていたらしくその手形は確認できたが、念には念
を入れたんだろう、布状の物で拭った痕があった」
「そこまで慎重な犯人が、包丁には指紋を残すかな」
「分からない。あり得ないとも言えるし、うっかりとはそういうものだとも言える」
「だよな」
 かぶりを振ってから、腰に手を当てストレッチの真似をした飛井田。
「もう一つ、気になる点がある。凶器の包丁は見付かったとき、セカンドバッグの中に
仕舞われた状態だった。刃には手ぬぐいをあてがい、柄にはビニールを二重にくるん
で、輪ゴムでとめてあったそうだ。何でそんなことをしたと思う?」
「何でっていうのは、こういうことか。すぐに捨てるつもりなら、わざわざセカンドバ
ッグに入れて運ぶ必要あるのかっていう疑問?」
 察しのいい土岐沢に、飛井田は我が意を得たりと大きく首肯した。
「そう、その通り。ただ、一番気になるのはビニールだよ。バッグと手ぬぐいは理解で
きなくもないんだ。恐らく深夜とは言え、現場から川の近くまで移動する間、剥き出し
の包丁を持って歩いている姿を目撃されたら、一発で通報されるだろう。手ぬぐいで血
が染み出すのを防ぎ、バッグで全体を隠す。しかし、ビニールだけは分からない。そん
な物を付ける意味がないし、付けてる暇があるのなら柄を拭っておけよっていう」
「確かにそうだ。ビニールで二重にくるんで、輪ゴムでぎゅっとやるなんて、真逆の行
為じゃないか。まるで、指紋を消したくないかのようだ」
「……そうなると、やっぱり小野寺犯人節は間違いか」
 頭の中で再構築を図る。
 たとえば、市浜と小野寺両名に恨みを抱く人物Xがいて、そいつは普段から小野寺を
尾行していた。あるとき、店の包丁を手に取る小野寺を見掛け、Xはこれは使えると思
った。小野寺が陳列棚に戻した包丁をXは購入し、これを使って市浜を殺害。小野寺に
濡れ衣を着せるべく、包丁を川に……。
「あれ? これもちょっと変だな」
「何が」
 飛井田は沈思黙考していたため、土岐沢が怪訝な表情をしている。
 飛井田は自嘲しつつ、今の推測を話して聞かせた。
「そりゃ変だ。罪を被せたいのであれば、凶器はそのまま現場に置いておくのが一番で
しょう」
「うむ。だが、大筋では間違っていない気もするんだよ」
「その推理、捜査本部的にはどうなん?」
「言ってない。今回の失態で、しばらく物を言える雰囲気じゃないんだ」
 さすがに肩を落としてしまう。発言力の低下は、組織による捜査において、非常に厳
しい。
「ははあ。飛井田刑事ともあろうお人が」
「よせって。今は単に鈴木って奴を探している。磯田愛子の関係者に、彼女を恨んでい
る鈴木がいるはずだってね。今のところ見付かってないが」
「そっか、ダイイングメッセージもあったんだな」
 そこまで言って少し考え込む様子の土岐沢。あごに手を当て、目線を下げた。
「ん? どうかしたか」
「たいしたことじゃない。偶然てあるものだなと思っただけ」
 そこで打ち切りたそうな土岐沢に、飛井田は目で続きを促した。
「事件が起きた日、続けざまにかり出されたって言ったの、覚えてるかい?」
「……ああ。交通事故があったんだったな」
 忙殺されていたこともあり、思い出すのにちょっと時間が掛かった。だが、一度思い
出すとしっかり記憶が甦る。
「事故現場と殺人の現場が同じ区域で、被害者がともに血まみれ、だっけ。他にも偶然
の一致があったとでも言うのか」
「うん、一致と言うには微妙なずれがあるんだけれど。磯田邸の床から血文字を浮かび
上がらせて、すずきって出て来たときに、少々震えが来たよ。橋での交通事故で死んだ
男性、鈴木って言うんだ。鈴木|勝磨《かつま》」
「鈴木……まさか」
 飛井田の頭の中で、二つの事実がシンプルに結び付いた。

「実際の殺人にはトリックの先使用権なんてありませんが、推理小説の世界では、作中
の犯人も割と守りますよね」
 小野寺宅を再訪した飛井田は、お茶のもてなしを受けていた。事前に敢えて都合を確
認し、訪問を予告していたのが好感を持たれたのかもしれない。
「他の犯人が使ったトリックは、頑なに使わない。あれって客観的に見ると不自然で、
滑稽だと思うんですが」
「そうでもありませんよ」
 飛井田からの刑事らしからぬ話題の振り方に、小野寺は微笑で応えた。自ら入れたミ
ルクティーの甘みをかみしめる風に間を取り、やがて続ける。
「面白い見方ではあるけれども、不自然とは言えません。何故なら、他人の使ったトリ
ックは、全て推理小説などに描かれて、種が割れているのですから。皆に知られている
ということは、自らの犯行に使っても、すぐに解き明かされてしまう。その恐れが強い
ため、犯人達は新たなトリックを案出しようと努力を惜しまない」
「ははあ、理屈は通るって訳ですか。じゃあ、拝借するとしたら、売れていない作家さ
んの作品からにしないといけませんね」
「飛井田さん。遠慮なさらずに召し上がってください。今日はお仕事じゃないんでしょ
う? お一人ですし」
 推理作家からお茶を勧められ、飛井田は困り顔を作った。
「いやあ、電話では、あなたに対しては仕事ではないという意味で言いましたが、非番
ではないんですよ」
「そうでしたの」
「まあ、この間のお詫びがてら、捜査の進展状況をお伝えすることで、ご容赦願えたら
なという気持ちでいます」
「よかったわ。私のことをまだ疑っていて、それでお茶を口にされないのかと」
「なるほど。しかし、ドラマなんかでたまにあるみたいですが、犯行がばれそうになっ
たからと言って、目の前にいる刑事一人を殺したって、何にもならんでしょうに。たと
え遺体をうまく始末できたとしても、警察はその刑事が最後に会ったであろう人物を徹
底的に調べますからね。早々に露見するのは間違いない」
「私は作中でそのような犯罪者は描いていないから、合格かしらね」
「そうですね。トリック借用の話をしても、一向に同じた気配がない。たいしたもので
す」
「……それは皮肉?」
 やんわりとだが気色ばむ小野寺。飛井田刑事は「とんでもない」と即答した。
「市浜万里奈さんを殺していないあなたに、そんな意味でこんなこと言いやしません
よ」
「……信じるとします」
 推理作家はカップの中身を呷った。
「捜査の進展状況を聞かせてください」
「そうでしたな、これが本題だ。どこから話そうか……まず、市浜さんを殺害した犯
人、誰だか分かりました」
「え? ニュースでは犯人逮捕どころか続報すら聞かれないようですけれど」
「無論、捜査方針という物がありますから。詰めなきゃいけない点も。とりあえず、誰
だか気になるでしょ?」
「もちろんですとも」
 カップの持ち手を触れている左手の指に、小野寺は右手を添えた。
「鈴木勝磨という男でした。三十歳、。リサイクル業者を称しているが、店舗を構えて
いる訳ではなく、廃品を回収、大手のリサイクルショップに持ち込んで金にしていたよ
うです。山梨出身の埼玉暮らし。軽トラで関東一円を走り回って、業者間では割と顔を
知られていたと分かりました」
「そんな男が、どうして愛子を……廃品回収時のトラブルとか?」
「その前に、より重要なことをお伝えしないと。実はこの鈴木、すでに死亡している」
「は?」
 かつんと音が響く。カップが一瞬浮かされ、戻るときにソーサーに当たったらしい。
「ま、まさか、罪を悔いて自殺、ですか」
「いいえ。交通事故です。それも市浜さんが殺害された深夜の時間帯に、V川――市浜
さん宅近くの川に架かる橋を渡っているときに、猛スピードで暴走していた車に突っ込
まれて」
「……えっと、ということはつまり、被疑者死亡で……」
「終わりませんよ。調べてみるとこの鈴木勝磨、道警から照会があって、先月、埼玉県
警が事情聴取している。札幌在住の|中村《なかむら》という男がその頃、刺殺される
事件が起きて、その被疑者の一人として名前が挙がったんです。中村は親が土地持ちの
ビル持ちでたいして働かずに、東京に住み着いて、結構いい暮らしを送っていた。鈴木
と知り合ったのは約二年前、中村がマンションを移るときに出る廃品の回収に鈴木が来
たのがきっかけで、以後、親しくなったようです。で、鈴木の方はギャンブルで大きく
損をして困ってた。そのとき気前よく大金を貸してくれたのが中村。両者に近い人間の
話では、利子は取らん、半ばやるつもりで貸したと言ってたとか。鈴木のどこをそんな
気に入ったかしれないが、とにかく気前がよかった。だが、一年ほど過ぎて事態が変わ
る。中村の父親が病気で死んで、とりあえず中村も北海道に帰ることになった。それで
もまた鈴木は借金を返さなくてよかったそうだが、またしばらくして中村の父親がちょ
こちょことあちこちに借金を作っていたことが判明。簡単には埋められない額で、中村
は一転して金策に動かなければいけなくなった。当然、鈴木にも金を返してほしいと頼
む。最初の内はのらりくらりとかわしていた鈴木だったが、次第に追い込まれて鬱陶し
くなったのかな。酔っ払って、あいつに死んでほしいとこぼしたのを友人が聞いていま
したが、実際には北海道に行って殺害してまだ戻るなんて行動を取れば、真っ先に怪し
まれます。そこで思い付いたのが、交換殺人」
「交換殺人」
 小野寺はおうむ返しに呟いた。
「交換殺人が何なのかは説明不要でしょうから省きます。鈴木は誰を交換殺人のパート
ナーに選んだのか。鈴木が仕事で取引したことのある店を丹念に調べてみたところ、ア
ンティークショップが四軒はあった。うち二軒に、市浜万里奈こと磯田愛子さんと因縁
浅からぬ人物が出入りしていたとなると、見過ごせない。それがつまり、あなたです」
「私がアンティークのお店で見知らぬ男から声を掛けられて、交換殺人を持ち掛けられ
て、話に乗ると?」
「はい。そう思います」
 小さな笑みを唇の端に乗せて表情を作った飛井田。
「もちろん、初めて誘われて、いきなりほいほいと乗ったとは思ってませんよ。何度か
会って話す内に、意気投合したものと想像してる」
「何の根拠があって、そんな妄想を言うんですか」
「根拠は、川から拾い上げた包丁に残っていた指紋ですよ」
「そ、それはおかしくない? 仮に犯罪に関係していたとしても、共犯の証拠にはなら
ないはず」
 小野寺が刑事の前で初めてあからさまに動揺を見せた瞬間だった。飛井田はチャンス
を逃さぬよう、話を急ぐ。
「いいえ。交換殺人を行うに当たって一番の難関は、信頼関係の構築だと思ったんです
よね。特に、殺す順番を決めるときに揉めるだろうなと。先に殺す方が損だから。相手
は殺してもらいたい奴を始末してもらって、あとは頬被りを決め込むことだってできな
くはない。誓約書めいた物を書くという手もあるだろうが、完全ではない。冗談だった
で逃げられるかもしれない。で、恐らくあなたの発案だと思うんですが、お互いが殺し
に用いる凶器に、共犯者の指紋なりDNAなりを前もって付けておくことにした」
「……」
「こうしておけば、先に殺した方は、後番の奴が殺人を渋るようなら、おまえの指紋が
付着した凶器を、警察に見付けさせるぞと脅せる。それだけじゃなく、両者が犯行を終
えたあとも、凶器を保管し続けることで、お互いの抑止力になる。交換殺人を行ったと
いう秘密は、墓場まで持って行こうという約束がより強固になるでしょう」
「待って。じゃあ、川から見付かった凶器入りのセカンドバッグっていうのは? 鈴木
という男が凶器の隠し場所として、そんなところを選んだの?」
 いささか芝居がかって、手をわななかせる格好で聞いてくる推理作家。口調はいかに
も苦しげに聞こえる。飛井田は首を傾げた。
「おかしいな。あなたほどの人なら、とうに気付いてるでしょう。鈴木は車にはねられ
た拍子に、小脇に抱えていたセカンドバッグを、川に落としてしまったんですよ」
「――そのバッグや包丁は、鈴木なる男の持ち物だと証明されたのですか」
「指紋は出ませんでしたが、鈴木がはねられ、挟まれた欄干の辺りに、セカンドバッグ
の布地が引っ掛かっていました。布地と言っても、微細な繊維ですがね。数は相当あっ
たので、根拠になる」
「刑事さん、おかしなところがあるわ」
 突然、小野寺が言った。声の調子が戻っている。光明を見出せたとでも言うのか。
「交換殺人は殺したいターゲットを交換する訳だけど、その交換したターゲットと何ら
かの形でつながりがあったら、成り立たなくなる」
「はい」
「愛子は『鈴木』を示唆する文字か何かを遺したのよね? 平仮名か漢字か、はたまた
文字ですらあるのかどうかも知らないけれど、何らかの形でメッセージを遺した。愛子
は何故、鈴木の名を知っていたのかしら? 愛子と鈴木は無関係のはずよ。これが立場
が逆ならだ、まだ分かる。多少とは言え有名人の愛子が犯人なら、鈴木が写真か何かで
愛子の顔を見知っていても不思議じゃない。だけど、現実には正反対。有名人が無名の
人の名を知っているなんて、あり得ない」
「そこなんですがね。あなたはお忘れのようだけれども、市浜さんは、いえ、磯田愛子
さんは覚えておいでだったみたいです」
「何のことよ」
「無論、鈴木勝磨のことです。鈴木自身は折角得た交換殺人のチャンスを逃したくない
から、嘘をついたのかもしれないな。あなたとは初対面を装った可能性が高い。だが、
実のところ、鈴木は推理小説好きで、自宅にはその手の本がたくさんありました。あな
たや市浜万里奈の本もね」
「それが? もしかしてサイン会にでも来ていたと言うの? そんなの、覚えているは
ずがないわ」
「いや、鈴木ももし大人になってからサイン会などで市浜万里奈さんと顔を合わせてい
たのなら、交換殺人はためらったかもしれません、彼が磯田愛子さん並びにあなたと会
ったのは、もっと前の話だと思われます。というのも、鈴木の自宅本棚には、あなた達
が連名で書かれたサイン色紙があったから」
 えっ。声にならない絶句で反応した小野寺。
「私と愛子が連名って。それに刑事さん、さっきから磯田愛子と市浜万里奈を使い分け
ている……。鈴木は私達の劇を観て、サインをもらった?」
「そういうことになります。日付から計算すると、あなた方は高校生で、鈴木が大学生
のときらしい。ああ、色紙には『鈴木勝磨さんへ』という一言も入っていました。断定
は避けるが、磯田さんが書いた字に見えましたよ。だから、鈴木勝磨のことをあなたが
覚えていなくて、磯田さんが覚えていたとしても無理はない」
「あの頃は……ファンの人は今以上に貴重な存在だったから、覚えているつもりでい
た。私よりも、愛子の方がファンを大事にしていたことになる……」
 小野寺の反応は、最近鈴木と顔を合わせておきながら気付けなかった、と白状してい
るに等しかった。尤も、現段階ではせいぜい、小野寺と鈴木が最近顔を合わせていたこ
とと、鈴木が市浜を殺したことしか証明できていない。鈴木が小野寺の家から包丁を勝
手に持ち出して、市浜を始末してあげたという筋書きだって成り立つのだ。指紋を残し
たのは、鈴木が小野寺を脅して言うことを聞かせようと企んでいた、とでも解釈すれ
ば、小野寺は加害者ではなく、被害者になる。
「小野寺さん、あなたはこの一ヶ月強の間に二回、札幌を訪れていますね。お友達との
旅行はともかく、その前の一人旅は何だったんですか」
「……」
 小野寺が疲れた様子で眼差しを向けてきた。警察がどこまで掴んでいるのか探ろうと
するかのように。
「取材旅行ではないですよね。短期間で二回行く必要がない。じゃあ何だろうと考え
て、ふと気付いた。さっきお話しした中村さんが殺された事件です。時期が近い。もし
かするとと考え、L文芸に問い合わせ、小野寺さんの北海道旅行の日程が、中村さん殺
害の日に重なっていることが分かった」
「それだけで中村某殺害の犯人扱い?」
「まだあります。犯人なら分かっていると思うんですが、中村さんもまた包丁で刺し殺
されました。よほど力を込めたのか、包丁は先端が硬い骨に達し、わずかに欠けたんで
す。遺体に残った微少な欠片を分析すると、特殊な合金が検出され、そこから販売網が
関東一円限定のメーカー品と判明した。関東圏の人間が犯人である可能性が高い。当日
犯行の機会があって、鈴木と交換殺人の契約を結んだ節があって、関東圏の人間である
小野寺真矢を、少なくとも容疑者として引っ張る分には充分ではないかと」
「なるほどね」
 逃げ道を塞がれていくことを肌で感じたか、小野寺はカップから手を離すと、二の腕
をさすった。
「でも知らないわ――って白を切ったら、どうするのかしら? 名刑事っぽく、決定的
な証拠を突きつけてくる?」
「名刑事と言えるほど鮮やかではないが、考えては来ましたよ」
「――聞かせてもらいましょうか」
 このやり取りの際、刑事も推理作家も虚勢を張っていた。
「あなたは交換殺人のパートナーの痕跡が残る凶器を、どこかに保管してるはずだ。物
が物だけに、身近に置いているに違いない。家中をひっくり返してでも見付けるつもり
でいます」
「私が共犯者の死亡を知って安心して、とっくの昔に処分したとは考えないの?」
「いや、それはないと考えています。小野寺さんは共犯者の本名を知らなかったんじゃ
ありませんか。市浜さん殺害後、音信不通になった鈴木は、あなたにとって不気味な存
在だったはず。そんなとき名前を知っていたのなら、ネットで調べれば鈴木の交通事故
死にも行き着くから、あなたは市浜さん殺害の凶器がどうなったのか、気が気でなかっ
たはず。しかし、実際は事情聴取中に鈴木の名が出ても反応はいまいち、いや、きょと
んとされていたと言ってもいい。多分、知りたくても知りようがなかったのではないか
と。彼の出入りしていたアンティークショップに行けば分かるかもしれないが、その分
危ない橋を渡ることにもなるし。
 それにですね、共犯者が亡くなったからと言って、簡単に凶器を処分できる心理には
ならないと思うんですよ。何故なら、共犯者が死んだのなら、警察が遺体の身元を調べ
て、下手をすると問題の凶器も見付てしまうかしれない。共犯者が自宅に交換殺人に関
するメモを残している恐れもある。それを見付けられたら、小野寺さんは窮地に陥る。
万が一のそんな場合に備えて、鈴木の指紋の付いた凶器は有用なんじゃないかな。たと
えば、陳腐な使い方だが、くだんの包丁を使って、あなたは自らの身体を傷つけるんで
す。警察へは、鈴木から脅されて傷つけられ、やむを得ずに殺人の片棒を担がされた、
と申し立てれば、多少の情状酌量の余地が生じるかもしれない」
「――参ったなぁ」
 そう返事した小野寺だったが、その物言いの響きにはすがすがしさがなくはない。
「陳腐って言われたけれども、その通り、私も同じようなことを考えていた。だから捨
てずに残しているわ、凶器」
「どこかなのか、教えてもらえませんかね」
 安堵の息を隠しつつ、飛井田はなるたけ柔らかい物腰を心掛けた。
「事情聴取に呼ばれるとなったとき、私が最後に触ったところよ。さあ、どこ?」
 クイズの出題者めいた推理作家の台詞に、飛井田は目をしばたたかせた。幸い、すぐ
に思い出せた。
「冷蔵庫――冷凍室の中ですか。精肉に埋め込むか、スライスした肉を巻き付ける等し
て、カムフラージュしているのでは」
「ご名答、です。つまるところ、冷凍した肉の中に隠しても、警察はいずれ見付けると
いう訳ね。一つ勉強になったわ」
 窓の方に顔を向けた推理作家は、笑いと泣きと苦しみが混じったような何とも言えな
い表情を浮かべた。
「この経験を作品に活かす機会が将来あれば、嬉しいんだけれど」

 了




元文書 #570 期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ   永宮淳司
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