AWC 眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗


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#545/555 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:59  (322)
眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:56 修正 第2版
   五

 藤崎青年に呼ばれて滝田が研究室に駆け込んだのは、二日後、午後八
時十七分のことだった。
 渦巻き流れるモニターの砂嵐が徐々にその勢いを弱めて像を形作り始
めた。
「どこかしら。林のようだけど」
「倉田さんの手か足が映ってない?」
 滝田は美智子と青年の後ろからモニターをのぞきこんだ。鬱蒼とした
林の中、もやが幽鬼のように漂っている。木々の間から薄暗い太陽がの
ぞき、木や草達に栄養分を与えている。倉田氏は林の中を歩いていく。
音は聞こえなくても倉田氏が草をかき分け、踏むのが伝わってくる。
 木々の間を抜けていくと突然視野が開け、モニター画面に幅の広い河
が映し出された。
 倉田氏は河川に沿って下流の方へと歩いていく。のんびりと河をなが
めながら散歩を楽しんでいるのだろうか。
 そんなふうにしてしばらく歩いていると、徐々に流れが速くなってき
た。おや、と滝田は思う。急流の中央部に何かが見える。最初、それは
石か何かに見えた。だが、動いていて浮き沈みを繰り返している。倉田
氏も気を引かれたらしく見つめている。
 その石のようなものの左横から、何かが現れて沈んだ。もう一度水面
から顔を出し、周りに水しぶきをたてた時、滝田はそれが何であるかが
かろうじて分かった。人間の手だ。大人のものではない。子供の腕だ。
滝田は心臓が締め付けられるのを感じた。おそらく美智子も同じ感触を
味わったに違いない。
「ちょっと、あれ、子供がおぼれてるんじゃないの?」
 倉田氏も同じことを考えているだろう。ただひたすら、その方を見つ
めている。水面から子供が顔を出した。苦しそうに目を閉じている。一
旦水面下に沈み、再び水しぶきとともに浮き上がった。そのほりの深い
顔立ちは日本人のように思えない。今までの経緯から考えると、古代エ
ジプト人だ。
「助けなくていいんですか」
 青年が緊張を含んだ声をもらす。
「助けるって、どうやって? 倉田さんがその気にならなければ救えな
いわ」
 滝田は、青年と美智子が驚くようなことを言った。
「いや、ひょっとすると助けない方がいいのかもしれないぞ」
 振り向いて滝田をにらみつけたのは美智子だ。
「何言ってるんです! どうして助けない方がいいんですか!」
「いいかい? あの子供は、名も無い農村の名も無い人間かもしれない。
しかし将来歴史に名を残すようなファラオになるのかもしれない。ある
いはヒトラーのような残忍な人間になるかもしれない。あの子供を救う
ことで、歴史が変わってしまう可能性がある」
「そんな!」
「倉田氏は元々この歴史の流れの中にいなかった人間かもしれない。こ
の映像が、倉田氏の前世の記憶がそのまま映っているのでなければね。
つまりこの人物が倉田氏の夢が作り出した存在だということだが。しか
し、倉田氏は夢の中で行った通りに現実を変えてしまうことができるよ
うだ。彼が歴史の流れにタッチすることは危険だ」
「それじゃあ先生は、あの子供がどうなってもいいんですか! 逆にあ
の子を助けることこそ、正しい歴史の流れなのかもしれないじゃないで
すか!」
 倉田氏はそんな二人の議論をよそに急流に近づいていく。河との長い
にらみ合いが続く。
 突如、モニターの風景が水の上を飛んだ。数秒真っ暗になり、次の瞬
間画面は大量のあぶくに覆われた。大小さまざまの泡が押し寄せてくる。
 顔を水上に出したらしく、今度は大量の水しぶきがディスプレイをお
おいつくし、そのすきまから対岸の土が見えた。映像は水の中に入った
り出たりを繰り返した。子供がだんだんと近づいてくる。
 ついに少年にたどりついた。その顔が画面一杯に映し出される。回転
して後頭部へ、そして頭のてっぺんへと変わっていく。子供を抱きかか
える筋肉質の胸と腕が浮き沈みを繰り返す。水に濡れるそれらは褐色の
肌であった。
 子供を抱えたまま立ち泳ぎで岸へと近づいていく。滝田達が手に汗に
ぎる中、ようやくたどりついた。土の上に少年を寝かした。やはり日本
人ではないようだ。胸をリズミカルに押し始めたところで画面が暗くな
ってきた。
「ああ、いいところなのに」と青年がささやく。
 夢が終わる瞬間、なんとか子供が水を吐き出し、意識が回復するのを
見ることができた。
「終わった」
 滝田がつぶやく。
「あの子は助かったんだわ」
 美智子は、はしゃいだ声を出した。
「何か、変わったか」
 滝田は周りを見回した。
「え?」
「子供を救助する前と後とで変わったことはないか」
「そんな。本気で言ってるんですか。あの子を救ったからと言って私達
の身の周りに変化が起こるわけがありませんわ」
 滝田は美智子に説明する気にもなれなかった。彼女を説得するのは骨
が折れる。たしかに、我々の日常は古代エジプトとはなんら関係のない
ささやかなものだ。しかし、あの少年がエジソンの遠い遠い祖先ではな
いと、どうして言えるだろう。子供を助ける以前はエジソンなる人物は
存在しなかったのかもしれない。救ったその瞬間に、かの発明王が存在
する歴史の流れに、切り替わったのかもしれない。しかし滝田達にとっ
ては幼い頃からエジソンという偉大な人物が実在したはずだ。だが、本
当はそうではなかったのかもしれない。たった今、そういうふうに全て
が塗り替えられてしまったのかもしれない。
 風が吹けば桶屋がもうかる、という論理で、少年の命が救われた結果
第二次世界大戦が起こったのではないと、どうして言えるだろう。彼が
生き残った結果広島と長崎に原爆が落とされたのではないと、どうして
言えるだろう。
 そう考えると、滝田は素直に喜ぶことができなかった。


   六

 アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。
すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、
デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気
は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はな
さそうだ。
 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく
茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休み
なのだから、おおいに活用しなければ。
 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コース
がある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物
足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッ
シュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や
美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分にな
るだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく
考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働い
ているだろう。
 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気
ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸
いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。
 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道が
うねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。葉
をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょう
どいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。
 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬ
ぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に
起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注
ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入った
やつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。
 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが
見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。
「いいお天気ですなあ」
 おじいさんはのんびりとした口調で言った。
「ええ、全くですね」
 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。
「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」
「え? こんなにいい天気なのに」
 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、
降りだしそうな気配はない。
「今日は泊まりの予定ですか?」
「いえ、日帰りですが」
「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分
も歩いた所に、山小屋がありますんでな」
 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく
老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コ
テージまでは青年の足で一時間はかかる。
 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、た
ちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りにな
った。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差す
が、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合
羽を出して羽織る。
 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁っ
た水流ができ、青年の歩みを邪魔する。
 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。
 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根か
ら滝のような水が流れ落ちている。
 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔
を出した。
「いらっしゃい」
「すみません。またお世話になります」
「ああ、藤崎さん、久しぶり」
 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。
さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。
「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、
そして宿帳とボールペンを持ってきた。
「部屋、空いてます?」
 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたよう
な構造なので狭く、やはり二部屋しかない。
 一階のうちの一つは主人の個室である。
「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やって
くる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」
「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨にな
るとは思っていなかったもんですから」
 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空い
ている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。
 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの
上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。
これからどうしようか。
 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心し
て月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断って
おかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。
 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の
電話を使わせてもらうことにしよう。
 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れてい
れば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。
濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転が
ると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。
 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。
「お食事の用意ができましたよ」
 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消
えていた。
「はい。すぐ行きます」
 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしま
っていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹
が減った。急いで一階へと下りていく。
 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる
主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子
が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、
その客が振り返った。
「あっ、先ほどの」
 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。
「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、
やはりあなたでしたか」
 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食
事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言
って自室に引っ込んでしまった。
 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチ
キンがいい匂いをたてている。
「地元の方ですか」と青年は聞いた。
「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」
「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」
「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで
分かるんですよ」
 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることが
できるのかもしれない。
「はあ。そういうもんですか」
 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。
「この山はよく登られるんで?」
「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスが
とれてすっきりします」
「仕事は何をやっとるんですか」
 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。
「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」
 老人の目に好奇の色が浮かぶ。
「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」
「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡
眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」
 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。
「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山
だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりません
が、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが
分かったんですよ」
「と言いますと、どういうことです?」
 青年は眉をひそめた。
「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言っ
た。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わ
んわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が
移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を
見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知
らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本
当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があった
から早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」
「本当ですか」
「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが
衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、ど
っかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そして
その通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんです
よ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえると
うれしいんですがな」
 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った
通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことが
なかった。
「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指
を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦
しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静
かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰
も看取らぬまま、死んでしまうんです」
「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」
「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老け
ています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうにな
るんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見
ています」
 青年は老人を安心させてあげたいと思った。
「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故が
あった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込ん
でいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たる
わけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言
うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。
大丈夫ですよ。死んだりしません」
「そういうもんですかねえ。だといいんだが」
「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」
 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予
知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青
年は思い、不安になるのだった。


   七

「あれ? 藤崎君は休み?」と滝田は言った。
「ええ。昨日雨でしたでしょう? 山の方では大雨だったんですって。
それで足止めをくったそうです」
「ああ、そういえば山登りに行くって言ってたな。常盤君はどっか行か
ないの?」
「私アウトドアは嫌いなんです」
「へえ。体に悪いよ。お肌にも良くないよ」
 美智子はキーボードを打つ手を休める。
「あら、日光を浴びると、かえって肌の老化を早めるんですよ。太陽は
有害なだけです」
 日の光を受けた方が、健康のような気がするけどなあ、と滝田は思う。
しかし美智子には反論しなかった。紫外線がどうのこうのと言い出すに
決まっている。
 滝田は黙って研究室を立ち去った。所長室に戻り、ゆっくりと椅子に
座る。机の上にはアメリカの睡眠障害研究連合や睡眠精神生理センター
から取り寄せた資料が大量に積んである。読みきれないうちにどんどん
新しいのが届くのは喜ぶべきことなのだろうか。
 滝田はその中から一番上のやつをつまみ上げた。英文がずらずら並ん
でいるのを見ていると嫌気がさす。こういうのも全部電子メールにすれ
ばよいのだ、と滝田は思う。そうすれば翻訳用アプリケーションで日本
語に訳すことができる。もっとも、そういった類のソフトウェアは未だ
に誤訳が多いから、結局は元の英文と見比べながら読むことになるのだ
が。
 資料を元の場所に放り、パソコンに向かい、メールが届いていないか
チェックする。
 高梨医師から一通来ていた。さっそくクリックする。内容はごく短い
ものであった。「滝田殿、倉田氏の件、状況はどうですか」という、たっ
たそれだけのものであった。しかし、その一文は滝田の心にずっしりと
のしかかってくるのだった。
 返事をしなければ。報告に期限が決められているわけではないが、途
中状況を知らせなければなるまい。スフィンクスとジェセル王のピラミ
ッドの夢のことだけ報告するか。それならば無難だ。しかしそれだけで
も、倉田氏が古代エジプト人になったという確証が得られたと言って、
大騒ぎするかもしれない。
 もうそろそろ倉田氏を返すべきなのだろうか、と滝田は考える。事実
を知りたいという研究者としての欲求と、現実というしがらみとの間で、
うまく折り合いをつけなければならない。第一、滝田の研究所にいる間
に倉田氏の病状が悪化したりしたら、責任がとれない。
 最小限のことだけ教えたとしても、高梨はすっかり喜んで、もっと研
究を続けるよう要求してくるだろう。高梨のあやつり人形になるのはご
めんだ。
 調査を長引かせるのは得策ではない。こんなに長い間調べておきなが
ら、二つしか夢が見られなかったのか、ということにもなりかねない。
やはり、倉田氏にはもうそろそろ病院に戻ってもらった方がいいように
思える。
 しかし滝田は、その日の夜、倉田氏の夢の調査は続行すべきだと考え
を変えた。倉田氏がまた研究室に現れたのだ。





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