AWC そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香


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#508/514 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




元文書 #507 そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
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