AWC 稚児の園殺人事件 1   永宮淳司


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#476/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/12/30  22:42  (358)
稚児の園殺人事件 1   永宮淳司
★内容
「姉を助けてください」
 可憐なその少年が言った。ほっそりとしているから、髪を伸ばせば少女にも見間違え
るであろう。詰め襟をきっちりと留め、いかにも真面目な印象がある。身体の大きな小
学六年生といった風貌だ。
 事務所に入って来た当初は、目に落ち着きがなく、おどおどしていた彼は、金尾幸治
と名乗った。誰も要求しない内から、生徒手帳を出してみせた。進学校として知られる
高校の一年生と分かった。
「警察は姉の話をほとんど信じてないみたいだし、弁護士さんは熱心じゃないように見
えたし、このままだと殺人犯人にされてしまうんじゃないかって思えて、心配で、どう
したらいいか分からなくて、それで僕、地天馬鋭さんの噂を聞いたから」
「分かったよ。順序立てていこう。まず、お姉さんの名前は」
 我が友・地天馬鋭は、彼にしては優しい物腰で言った。
「金尾夏江と言います。僕より八つ上で、今年二十四歳になります。私立草高幼稚園の
先生をしています」
 幸治少年はなかなか利発そうな外見をしていたが、中身もギャップがないようだ。依
頼内容に関係することを聞かれる前に話し始めた。
「草高幼稚園はどこにあるんだろう? 残念ながら僕は知らない」
「Y県の方です。詳しい住所はここに」
 と、少年はメモ用紙を胸ポケットから取り出し、開いてから地天馬の前に差し出し
た。地天馬は紙を一瞥してから、私によこしてきた。データ入力しておく。
「こちらでは報道されてませんが、だいたい一ヶ月くらい前に、この幼稚園で殺人事件
がありました」
 幼稚園で殺人とは穏やかでない。私は思わず口を挟んだ。
「まさか、子供が殺されたのかい?」
「いいえ。江内ローンという金貸しの社長が被害者です。江内省三、五十九歳と聞きま
した。幼稚園は老朽化がひどくって、その改修費用を江内ローンからを借り、大変な額
に膨らんでしまったそうです」
「お金が動機と見なされているんだね」
 再び地天馬が聞く。
「だと思います。詳しくは……」
「お姉さんは幼稚園の経営にタッチしていたのかい?」
「していませんが、子供達や幼稚園の将来を思う心は、園のみんなが同じ酔うに持って
いるって……」
 姉を思い起こしたのか、しばし言葉を詰まらせ、幸治は唇を噛みしめた。若干、頬が
紅潮したようだ。色白の肌が朱に染まる。
「すみません。僕にとって、姉は母親代わりの存在だったから」
「かまわない。ゆっくり、落ち着いて喋ってくれればいいよ」
「でも、少しでも早くしたいから」
「そうか。では――夏江さんがどうして容疑者にされたのか、知っていることを全て話
してくれないか」
「それなら、警察と国選の弁護士さんから、粗方聞いています。殺人現場の状況が、姉
にしか行えないことを示しているって」
「うん。もっと具体的に。先に、状況を説明してほしい。事件のニュースはこちらでは
どうやら流れていないらしい。僕らは全く知らないんだ」
「はい。江内社長が幼稚園の庭で死んでいて……あ、洗濯物を干すロープで、首を絞め
られていて。ロープはベランダの柵に掛けてあった物で、誰にでも使える状態でした。
ううん、背の低い子供には無理ですけど」
 さすがに殺人の説明に差し掛かると、話し方がおぼつかなくなる。人から聞いた話で
あること以上に、やはりその非日常性が少年を動揺させるに違いない。
 地天馬は両肘を机につき、組んだ手の甲に顎を乗せる格好で、辛抱強く聞き役に徹し
た。
「事件が起きたのは、大雨が降った翌日の土曜でした。実は、僕も姉のアパートに行っ
ていたんです」
「え?」
 さすがに地天馬も意外に感じたのか、声を上げた。
「電話したとき、姉がとても落ち込んでいるように思えたから、金曜の夜、思い切って
行ってみたんです。泊めてもらうつもりで、あらかじめ連絡を入れておきました。土日
と休みだし」
「事件直前のお姉さんの様子に、何か不自然なところはあったのかな」
「あるというかないというか……依然として落ち込んでいる風でしたが、聞いても何も
教えてくれなくて。それ以外の話題には明るく応じてくれるんです。僕が冗談を言うと
笑うし、テレビの物まね番組で派手なかつらを被ったタレントを見て、急に姉もかつら
を引っ張り出してきて被って、おどけたり。あとで思ったんですけど、僕を心配させま
いとして、姉は無理をしてそんな振る舞いをやったのかもしれませんよね。
 結局、金曜の晩、姉は早めに布団に潜ってしまいました。それで、僕も仕方なく眠っ
たんですが、まさか次の朝、あんな知らせを聞くなんて」
 声を詰まらせる金尾幸治。我々は先を急かさずに待った。
「在来線を乗り継いでいった疲れで、僕は寝坊してしまいました。起きると八時二十五
分ぐらいで、姉が用意してくれたコーンフレークとハムサラダの食事があって、それを
食べてるとき、急に訪問者があったんです」
「お姉さんがいつ出て行ったのかは、分からないんだね?」
「はい……」
「思い出すのは辛いかもしれないが、殺人事件そのもののことを聞かせてくれないか。
他に必要と感じれば、君のことも聞くよ」
「分かりました……土曜日は朝から曇りで、地面がぬかるんだままで……そうだ、写真
を見せてもらったんですけど、水たまりがほんの小さな物ですがあっちこっちに残って
いるくらいの状態でした。そんな泥の中に、社長は仰向けで倒れて亡くなってた」
「凶器のロープはどこに?」
「遺体の首に巻かれたままだったとか。それで、ロープから指紋が……姉の指紋が出た
のが、証拠の一つにされました。でも、他の人のだって、着いてるんです。当然ですよ
ね、普段から園で使っている物なんだから」
「恐らく、夏江さんは遺体発見時にロープに触ったんじゃないか」
「そ、そうです。あの、まだ言ってないと思うんですが。姉が第一発見者だってこと
を」
 目を大きく開いて、それから瞬きを幾度もした幸治少年。一方、地天馬はわざとなの
かどうか、驚いた顔つきをする。
「ああ、推理が当たったようだね。よかった」
「推理って……」
「ロープに多人数の指紋が残っているにも関わらず、君のお姉さん一人が特に疑われる
としたら、その理由は何かと考えてみたんだ。前日、大雨に降られたんだから、それま
でに着いたロープの指紋は薄くなったはず。夏江さんの指紋だけが鮮明に残るとした
ら、事件後、ロープに触れた可能性が高い。ロープに触れるには、第一発見者でなけれ
ば難しいだろう……と」
「す、凄いですね。その通りなんです」
 見開かれていた少年の目が、ほっとした光を帯びる。地天馬に全幅の信頼を置くこと
に決めた――そんな様子に見えた。
 地天馬は椅子の上で腰の位置を直すと、次のことを付け加えた。
「ただ、第一発見者という理由だけじゃない気がする。幸治君は地面のぬかるみを強調
していたから、恐らくは事件に関係があると見たんだが、どうかな」
「は、はい。当たってます。凄い、本当に……」
「君が知っていることを言い当てても意味がない。事件の真相を射抜かないとね。さ
あ、続きを」
 地天馬に先を促され、少年は居住まいを正し、両手を膝上に揃えた。畏敬の念を態度
で示そうというのか、傍目から見ていると面白い。
「足跡が、姉のものしかなかったんです」
「ふむ。被害者の足跡もなかったのかい?」
「あ、いえ。間違えました。姉さんの他に、死んだ社長さんのもありました」
 小さな間違いでも恥ずかしいのか、うつむいて、頭頂部を地天馬に向ける格好になっ
た。ずっと「姉」で通してきたのが、初めて「姉さん」に変化したことからも、動揺が
窺える。
「気にしないで、僕にもっと教えてくれよ、事件のことを」
 私は依頼人と地天馬の様子を目の当たりにして、何だか先生が児童に接しているみた
いだな、と内心で苦笑した。
 この金尾幸治少年、今時珍しいタイプの高校生ではないか。いや、本当はいつの時代
にもいるのだが、目立たないだけなのだ。
「は、はい」
 顔を半分ばかり起こし、幸治少年は唇をなめた。詰め襟に指をやって息苦しさを緩和
し、深呼吸を挟むと、話を再スタートさせる。
「姉さんが、じゃなくて、姉が言うには、その朝七時、幼稚園に一番にやって来て、庭
で遺体を発見したとき、地面には社長さんの足跡だけがあったって。それでびっくりし
て駆け寄って、首に絡まっていたロープを外し、何度も揺さぶったけれど、社長さんは
意識を失ったまま。恐くなったけど、それでも脈とか心臓の音とかを探って、死んでる
みたいだって……警察と救急車を呼ぼうとしたら、ちょうど他の先生達が姿を現したん
だそうです。その中の一人に通報を頼んで、姉は社長さんの身体から離れて。そうした
ら急に震えが来て、その場にしゃがみ込んだって言ってました」
「幼稚園の敷地内の見取図、ないかな。君に書いてもらってもいいんだが」
 地天馬が求めるのへ、少年は慌てたように首を横に振った。
「絵は、全然駄目なんです。見取図をもらっていればお渡しするんですが、あいにくと
……」
「ん、分かった。こちらで何とかするとしよう。では、そうだな。金尾君は、直接その
幼稚園に行ったことは?」
「姉に会いに行ったとき、何度かあります。事件のあとなら、一度だけですが。そのと
き、事件の説明をされたんです。全然納得できなかった」
「結構。足跡が残らない領域が、当然あったと思う。たとえば幼稚園の建物のベランダ
や、コンクリートブロック、短い芝を植えたスペースがあれば、そこも該当するかもし
れないな。そういった足跡が付かないであろう場所と、被害者が倒れていた位置との距
離を思い出してほしい」
「あっ、ジャンプできるかどうか、ですね。それなら警察の人がすでに実験したそうで
す。まず無理だろうって。ジャンプしても届かないか、ぬかるんだ地面に足を取られ
て、派手に転ぶのが落ちだとかどうとか」
「さすがにこの程度は、警察も調べているか。ついでにもう一つ、空想の可能性を潰し
ておくか。園内にブランコはある?」
「ブランコ? 確か、箱型の四人乗りのやつが置いてあったと思います。ただ、安全面
で問題が取り沙汰されているとかいう理由で、使用中止になっていましたよ」
「ほう。その“使用中止”とは、警告だけなのかな? それともブランコ自体が動かな
いように、針金か何かで固定していると?」
「固定されてました。太い針金で揺れないようにして、さらにブランコの真下の地面に
クッションみたいな物を置いて、空間をなくしているというか……」
「クッション?」
 これは私の発言。野外に布製のクッションなんか置いたら、すぐにぼろぼろになって
しまうだろうと感じたのだ。
「あ、あの、クッションというか、空気の入った直方体のブロックみたいな代物です。
えっと、ビニール製で、そう、ビーチボールと同じ材質じゃないでしょうか。あれの直
方体版という感じです。一個が抱き枕ぐらいありそうな」
「ああ、なるほど。理解できたよ」
 正式名称を知らないが、教育テレビの幼児番組で見掛けたことがある。ビニール製の
大きな積木といった趣だった。各面が赤や青や黄色など、異なる色で塗り分けられてお
り、なかなかカラフルだったのを覚えている。
「ブランコがそんな状態では、横揺れを利して勢いをつけてのジャンプもあり得ない訳
だな」
 地天馬は真面目な調子で言ったあと、相好を崩してくすくすと笑った。
「金尾君、話してくれたことに感謝するよ。このあとは僕の方で動くから、心配しなく
ていい」
「あ、あの、地天馬さん。僕の依頼、引き受けてくださるんでしょうか?」
 不安いっぱいの眼差しで、低いところから見上げるかのように、恐る恐る、地天馬を
見る少年。
 名探偵は力強く首肯した。
「もちろんだとも。ここまで事件について聞いておきながら、何もしない訳が無いじゃ
ないか」
「あ、ありがとうございます。で、でも……僕……」
 またもやうつむいてしまう。彼は、学生ズボンの尻ポケットに手を持って行こうとし
てはやめる、という仕種を何度か繰り返した。
 もしかすると、この子は……。
 しばらく静かな時間が続いたので、私は地天馬に近付き、耳打ちした。
「地天馬。彼は依頼料の心配をしているんだよ、きっと」
「ん? ああ、そうか。仕事であるのをすっかり忘れていた」
 地天馬は席を立つと、背後のロッカーから、この間作ったばかりの木製のドアプレー
トを取り出してきた。「本日休業」と彫られた、素朴な味わいの板だ。地天馬自身はチ
ェーン部分が気に入らないらしく、他の物を買ってきて付け替えようと主張していた。
 地天馬はそのプレートを手に、一旦部屋の外に出ると、ドアノブに引っかけ、また戻
って来た。名探偵のこの突然の振る舞いに、私だけでなく、少年も一緒になって怪訝な
顔つきをした。
「なに妙な顔をしてるんだ?」
 我々の前で、地天馬は両腕を横に大きく開いた。
「金尾君。君は、休業中の探偵事務所に来て、雑談をした。その話に僕が勝手に興味を
持ち、調べる気になった。いいね?」
 ……また私を当てにする気だな。しょうがない奴。

 金尾夏江についた国選の弁護士は、我々との協調どころか、会うことさえ拒否した。
容疑者の弟からの依頼を受けたとは言え、探偵という存在は胡散臭く映るい違いない。
弁護士としての義務を遵守するなら、第三者の民間人に介入させないのは当然の態度
だ。充分に予想できる事態であり、ショックはない。
 幸い、Y県警には旧知の早矢仕刑事がいる。地天馬にとって本意ではないかもしれな
いが、彼を頼らざるを得なかった。むしろ、早矢仕刑事の存在が頭にあり、算段を立て
ていたのだと思う。
「お久しぶりです」
 駅前まで迎えに来てくれた早矢仕刑事は、短いながら顎髭を蓄え、イメージが多少変
わっていた。若々しい感じは薄れたが、代わりに精悍さを得たと言ったところか。知ら
ない人が見れば、社会人スポーツ選手と思うかもしれない。
「お世話になります」
 警察が好きでないらしい地天馬も、このときばかりは礼を尽くす。握手を交わし、お
互いに軽く頭を下げた。
「お世話と言っても、大したことはできないと思いますよ。今回、地天馬さんは我々の
見解とは異なる立場をお取りだそうですね。下田さんから聞きました」
「いがみ合うつもりは毛頭ない。真相を知りたいだけです」
「何でも、容疑者の弟から依頼を受けたとか。私も会いましたが、かわいらしい感じの
少年で、探偵に依頼を出すなんてことをするようにはとても見えなかったな。姉のため
を思って、懸命なんでしょうねえ」
 刑事の口ぶりには、同情する響きがあった。事件の構図は警察が掴んだ一通りしかな
い、と自信を持っているのであろう。
「とにかく、車にどうぞ。現場を見るにしても、資料を見るにしても」
 早矢仕刑事が示した車両は、黄色の軽四だった。記憶を掘り起こした私は、このとき
微苦笑を浮かべていたろう。
「ひょっとすると、あれは早矢仕さん自身の車で?」
「ええ。よく分かりましたね。警察車両だと、地天馬さんに文句を言われることを学習
しましたから。今回のように意見の相違がある場合、こうするしかないでしょう」
「そうなってくると、燃料代が気になるな」
 地天馬が言ったが、多分これは冗談だ。
 全員が車に収まると、早矢仕刑事はエンジンを掛ける前に、我々の方を振り返った。
「天気がよくて何よりです。で、どうします?」
「早矢仕さんはこの事件の捜査に携わっているのですか」
「無論です。携わってなければ、ここまで勝手はできません。携わっていても、かなり
冷ややかな目で見られますがね」
「お骨折りには感謝しましょう。捜査に携わっているのなら、事件のあらましの説明は
問題ないですね」
「ええ。話せる範囲で、お話ししますよ」
「では、現場に向かおう。足跡がポイントになっているようだから、早めに見ておきた
い」
 地天馬の決定に、早矢仕は黙ってうなずき、車をスタートさせた。ロータリーを出
て、ハンドルを左に切る。ビル群が少しだけ続き、程なくして風景が開けた。住宅街ら
しき区画に入る。
「近いんですか」
 私が尋ねると、「まあ、近いですね」と返事があった。
「日を指定させてもらったのは、今日明日と幼稚園が休みだからでして。心置きなく、
現場を見ることができるでしょう」
「保存状況は、期待しない方がいいでしょうね。幼稚園の運営がある」
「はあ。充分に捜査しましたし、写真などで記録も取ったので、フォローは万全かと」
 やがて草高幼稚園に着いた。事前の想像では、さほど広くない土地を最大限有効活用
した、こじんまりした施設を描いていたが、実際は違った。建物自体は確かにこじんま
りしているが、広い庭付きだ。塀は低いようだが、生垣が作られ、道路との距離を充分
に取っている。幼児を思う存分遊ばせることができるし、親も安心感を持てるだろう。
「鍵を、事務長の草高均氏から預かってきました」
 門をくぐり、足を踏み入れる。門から園舎の玄関まで、コンクリートの白い道が続く
が、我々が今目指すのはそちらではない。
 左脇に逸れると、やはりコンクリートで固められたごく緩やかな坂がある。そこを下
ると、幸治少年が言っていたように、ビニールブロックを三つ載せた箱型ブランコを真
左に見ながら、殺人現場である庭に出た。園舎の前からは、コンクリートが途切れ、地
面になる。刑事が言った。
「庭は遺体発見時の状況を再現してます。写真を元に再現したから、間違いありませ
ん。無論、足跡と遺体そのものを除いて、ですがね」
 鰻の寝床のように細長い庭だ。広くはあるが、遊具や砂場、プールなどが道路側の塀
際にまとめて設置されているせいもあり、土が露出したスペースのみを取り上げると長
辺と短辺の長さが極端に違う長方形に見える。
「江内省三が倒れていたのは、あそこです」
 早矢仕刑事は一方向を指差しながら、我々を先導する。すでに地面はぬかるんでいな
いし、足跡も残っていない。だが、それでも足下を注意してしまう。
 刑事は立ち止まると、改めて「ここです」と言った。門から見て、最も奥まった地点
と言えた。
「塀に頭を向け、足はこっちでした」
 頭の位置を示す早矢仕刑事。隣家側の塀から一メートル近く離れていた。道路側の塀
へ一メートル行くと、ブランコがあった。こちらの方は一人乗りのブランコが二つだ
が、やはり使えないように針金で縛ってあった。事故防止なのだろう。
「足跡は二種類のみ。どちらも門のところからここまで続いていた。被害者と容疑者・
金尾夏江のものです。幸いにもほとんど重なっておらず、識別は大変容易でした。他の
足跡を消した形跡はなし」
「念のため、足跡に沿って、歩いてみてくれますか」
 リクエストを、早矢仕刑事は気安く引き受けた。何度も現場に立って記憶に鮮明なの
か、迷う様子もなく二往復した。先に被害者、次に金尾夏江の足取りを再現する。
 被害者の方が、道路寄りのルートを取ったと分かる。対する夏江は、被害者の足跡と
園舎のベランダのちょうど中間辺りを通ったらしい。
「金尾の供述では、被害者の足跡を避けて歩いたのは、何となく嫌な予感がしたからだ
と。まあ、門のところに立てば倒れた江内の姿が目に入るでしょうから、不自然とは言
い切れませんがね」
「洗濯紐による絞殺だと聞いています。凶器となった紐は、どこに掛かっていたんで
す?」
「ベランダの両サイドに柵があるでしょう。その向かって右側の方です」
「そうですか。ちょっとおかしいな」
「え。な、何がですか」
 うろたえぶりが激しい早矢仕刑事。以前の事件で地天馬の探偵能力を目の当たりにし
たせいだろうか。
「紐を手に取るのに、金尾さんが歩いたルートでは、やや遠いように思える」
「何だ、そんなことですか。手を伸ばせば届かない距離じゃないでしょう。金尾夏江に
会えば分かりますが、背の高い、すらりとした美人ですよ。ああ、美人は余計でした
ね」
 安堵の息のあと、笑みを浮かべた早矢仕刑事。だがそれも束の間。
「何故、わざわざ手を伸ばしたのかな。ベランダのすぐ前まで近付いて、紐を取ればい
い」
「……なるほど。理屈だ」
 言いながら、首を捻った刑事。地天馬の見解に疑問があると言うよりも、認めたくな
かったのかもしれない。
「しかし、それだけでは覆せませんよ」
「でしょうね」
 地天馬は淡々と認めると、庭をぐるりと見渡した。
「話を先に進めますよ。塀越しに、道路からこちらに遺体を投げ込むことは、不可能で
すか」
 地天馬の問い掛けに、刑事は目を見開いた。だが、そんな驚きの表情はほんの一瞬
で、すぐに微笑を浮かべた。
「一応、警察でも考えましたよ。ダミー人形を使った実験では、よほどの怪力無双か、
あるいは重機を使うかでなければ無理との結論が出ました。機械の類を持ち込むと、近
隣で気付く人が大勢いていいはず。実際はそうでありませんでしたから」
「車高の高い、たとえば大型トラックやバスから遺体を投げ落とせば、届くのでは?」
「実験はしていませんが、そんな高さから落とせば、遺体に何らかのダメージが出ま
す。そのような報告は受けていません」
「ふむ。園舎内を通って、遺体をあの位置まで放るのも無理だろうな……。納得しまし
た。説明の続きを」
 地天馬に促された早矢仕刑事は、小さく咳払いをした。
「えー、先にも触れましたが、金尾夏江は江内を絞殺するのに充分な身長を持っていま
す。首にはほぼ平行に絞殺痕が残っており、身長の点で問題はありません。腕力の方
は、火事場の何とやらと言いますし」
「ちょっと待った。早矢仕さん、いちいちそんなことを断るからには、何かあるね。た
とえば……被害者の首が折れていた?」
「い、いえ。とんでもない。折れてはいません。わずかにひびが入った程度で、女性の
力でも充分ですよ」
「随分断定的だなあ。相手が無抵抗だったら、そうかもしれないが」
「その点はこれからお話しします。動機にも絡んでまして……さっきから、私、被害者
を呼び捨てにしてると思うんですが、江内っていう男は正直言って、いけ好かない野郎
なんですよ。金貸しというだけで悪徳のイメージがあるかもしれませんが、そういうん
じゃなく、女に手が早い。返済期限の延長を餌に、女をものにしてきたようなところが
あります」
 刑事の力説を聞いて、私はつい、聞いてみたくなった。
「被害者の年齢は割と行っていたんじゃなかったですか」
「今年で六十。周りの人間の噂によると、全く衰えていなかったようですよ。もうご想
像できてると思いますが、江内は金尾夏江を狙っていた。ここへの融資を続行し、返済
期限を延ばしてやる代わりに、自分のものになれっていうやつですね」
「草高幼稚園の経営は、そんなに苦しいんですか」
 私は幼稚園のあちこちを眺めながら、不思議に感じた。建物は多少老朽化しているよ
うだが、遊具は充実しているし、塀はまだ真新しい。全ては融資のおかげなのだろう
か。
「園長の……違った、事務長の草高均氏は他にもいくつか事業を手がけており、うち、
一つが江内金融に食い物にされている状態です」
「江内が死んだからと言って、借金がなくなる訳じゃないでしょう」
 私が指摘すると、早矢仕刑事からたしなめるような返答があった。
「ですから、江内の女癖の悪さが、本来の動機であると言ってるんですよ」
「それは分かりますが、ロープで殺すって言うのが、ぴんと来ない。計画殺人てことに
なる。これがたとえば、強引に言い寄られたのを拒絶した結果、突き飛ばして死なせて
しまったというような状況なら、まだ分からなくもないんですが」
「僕も同意見だ」
 地天馬が言った。彼と意見の一致を見ると、何故だか嬉しくなる。
「計画的犯行だとすれば、殺害場所に幼稚園を選ぶのは、論理的でない。真っ先に疑わ
れるし、園や子供達に多大な迷惑を及ぼす」
「ごもっとも」
 つぶやき、考え込む刑事。当初の自信が薄らぎつつあるのが見て取れた。
「でも、ですね。その考え方だと、幼稚園の職員は全員、犯人ではあり得なくなりま
す」
「悪徳金融業者を恨んでいるのは、草高幼稚園の人ばかりじゃないでしょう」
「もちろんですが、幼稚園の庭で死んだとなりますとねえ」
「幼稚園の関係者に容疑を向けさせるためかもしれない。江内と関係を持った女性が、
貸付先のリストを盗み見るか聞き出すくらいは、可能だと思いますね」
「あるかないかを論じれば、あるに振れるでしょう。だが警察は――私ごときが言うの
は口幅ったいですが――現実主義者です。最もありそうなことを真実として汲み取って
行く」
 論がかみ合わない。否、早矢仕刑事が故意に避けている。立場上、やむを得ないのだ
ろう。
「建物の中を見たら、ここは立ち去るとしよう」
 地天馬が言った。


――続く




 続き #477 稚児の園殺人事件 2   永宮淳司
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