AWC 裏返ったパッチワーク<前>   永山


        
#472/514 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/07/30  21:48  (288)
裏返ったパッチワーク<前>   永山
★内容
 南北砕郎(なみきたくだろう)は辛口のミステリ評論家として知られたが、
殺されるほどではないはずだった。しかし、七月二十九日の午前十時頃、原稿
を受け取りに来た編集者によって、自宅の書斎で冷たい骸になっているのを発
見された。背後より二度、背中を刺されており、他殺以外の何ものでもない。
遺体や現場の状況から、デスクに向かっていたところを襲われ、逃げようとす
るもとどめを刺されたらしかった。
 玄関に鍵はかかっておらず、特段の防犯システムもなかったので、誰でも出
入り可能だった。ドアノブや電灯のスイッチその他めぼしい箇所の指紋は、布
か何かで拭われた痕跡があった。
「――ところで、弊社がお願いしていた原稿はできていたはずなんで、プリン
トアウトするか、データをコピーして持って行きたいんですが」
 はからずも第一発見者になった香取敬造(かとりけいぞう)は、鼻を利かせ
る鼠のような仕種から、書斎の方に首を振った。細面かつ小柄なこの人物は、
まさしく鼠を連想させた。
「ああ、パソコンですか」
 発見時の様子を聴いていた刑事が、察しを付けて応じた。思案げに眉を寄せ、
独り言めいた声量で続ける。
「どうしよう。私の一存では決められないので……」
「頼みます。上の人に聞いてもらえませんですかね」
 殺人現場の書斎には、ノートパソコンが一台あった。やや旧い型ではあった
が、個人は気に入っていたらしく、使い込んだ形跡が見られた。問題は、発見
当時、その画面に映し出されていたものである。
 ワープロソフトが起ち上げられており、次のような書き掛けの文章が表示さ
れていた。
<本格推理小説におけるトリックの内、最も魅力的で、最も飽きられやすく、
それでいて最も寿命の長いものといえば、やはり密室トリックになるだろう。
 「また密室か」と好事家の読者にまで飽きられるほど、繰り返し描かれてき
た謎なのに、未だに用いられている。本格推理の読者達が、密室に飽きて読む
のも嫌だと心の底より思ったのなら、不買運動なり、密室禁忌読者連盟を起ち
上げるなりすればよい。しかし、そんな行動が起こったとは、寡聞にして知ら
ない。ジョークとしての行動ならあったかもしれないが、実際的な、換言する
と、「新作ミステリで密室を絶対に使ってはならない!」なんて声は、巻き起
こってはいない。そんなこと、誰も本気で願っていないからに違いない。それ
どころか、彼らはきっと頭の片隅で、「ひょっとしたらあっと驚く素晴らしい
密室トリックが、まだまだ出て来るかもしれない」と淡い期待を抱き続けてい
るのだ。
 さて、そんな密室トリックだが、ここひと月に刊行された諸作の中に、少し
ばかり目新しい物が散見された。あっと驚く素晴らしい密室トリックには届い
ていないが、そこへと通じる何らかのヒントを秘めた可能性はある。
 たとえば、泥田冷泉の『キーロック』(活談社)。この作品に描かれた密室
トリッ>
 文筆を生業としたためか、南北はパソコンのトラブルに備え、文書の自動保
存機能を活用していた。原則的に、執筆中の文書が五分おきにHDDとUSB
フラッシュメモリに保存されるよう、彼は設定していたと判明している。ソフ
トの仕様で、五分前の時点と文章が変わっていなければ、自動保存の命令は働
かない。また、自動保存がいつ行われたかが記録され、その履歴を利用し、過
去の文書を復活させることもある程度可能。
「やっぱり無理だな。解析が終わるまで、触らないようにと言われてるので。
え、プリントアウトやデータをコピーするくらいなら、影響はないと私も承知
していますよ。でも、もし何か不審な点が出て来たら、あなたも疑われるかも
しれませんよ。調べ終わるのをお待ちください」
 若さもあってか、刑事は理解を示しつつ、やんわりと断った。
「どうしても無理ですか? しょうがないなあ」
 香取の方も案外あきらめよく引き下がった。「いざとなれば、追悼文で埋め
ればいいんだし」と小声で続けたところをみると、特に困っている訳でもなさ
そうだ。
「それよりも、話の続きですが、南北さんと揉めていたような人物に、心当た
りはありませんか。あるいは、昨日一昨日辺り、ここを訪ねる予定になってい
た人とかでも」
 刑事は香取への聴取を再開した。
 被害者は五十を目前にした独身で、自宅の一軒家にも一人住まい。希に、家
事代行業者を依頼することがあったらしいが、年末の大掃除のときぐらいで、
夏の盛りに呼びはしない。
「恨みどうこうっていうのはすぐには思い浮かびませんけど、知り合いの多い
人でしたから、ひょっとしたらいたかもしれません。それに、家を訪問するほ
どの仲となると、限られてきますよね……」
 顎先に片手を当て、考える仕種になる香取。やがて、被害者と特に親しい者
として、三人の名を挙げた。
「最初に浮かんだのは、南北先生がお付き合いしていた女性で、中見麻里(な
かみまり)さんという方です。どこかの料理屋で店員をしていたのを、見初め
たんだと言っていましたが、実際は、ホステスだと聞いています。外見は今風
の若い子なんですが、頭の回転がなかなかよく知識も豊富で、先生と話が合っ
たようです。今はホステスを辞めて、アクセサリーのデザインをやっているそ
うですが、詳しくは知りません。根掘り葉掘り聞くようなことでもないので」
「ホステスを辞めたのは、南北さんと結婚する約束でもあったとか?」
「いいえ、そんな話は一向に」
 香取は顔の真ん前で、片手を左右に振った。目の驚き具合からして、想像す
らしていなかったようだ。
「端で見てる限り、今の関係を楽しんでおられるようでした。名前を出してお
いてなんですけど、彼女が先生を殺すなんて、考えられません」
「ふむ」
「次は、有村吉男(ありむらよしお)といって、彼なら動機があると言えるか
もしれません。というのも、彼の姉、美津子(みつこ)さんという方と南北先
生は、かつて結婚されていましたが、確か四年目に別れたんです。離婚後、三
月ほど経った頃、美津子さんは交通事故でお亡くなりに……。あとから聞いた
んですが、離婚で美津子さんは精神的にちょっと不安定な状態が続いていたら
しく、事故に遭ったのもそのせいだと、少なくとも弟さんは考えていた節があ
りました。美津子さんが亡くなってから二年近く、先生のところに文句を言い
に行ったり、電話をしつこく掛けてきたりしていたという話です。ただ、そん
なストーカーまがいの行動は、とうの昔に収まってるんですけど。南北先生が
警察沙汰にせず、話し合いで納得してもらったようです」
「離婚は今から何年前のことです?」
「えっと、あ、ちょうど二十年になりますね」
「そんな昔の……」
 首を捻る刑事。顔には失望の色が明白に出ていた。香取はかまうことなく、
意見を続けた。
「三人目、これで最後ですが、三人目は斉藤龍輝(さいとうりゅうき)先生。
南北先生と仕事上で、本当に大喧嘩になったのはこの人ぐらいです。元々、同
じ題学の先輩後輩で、親しい間柄だったのに、作品や評論を巡るやり取りで、
険悪になってしまいました」
「ちょっと待ってください。斉藤さんとは何者ですか? 先生と呼ばれるから
には、被害者と同じ評論家か、もしくは……」
「ああ、推理作家です。結構、有名だと思うんですけど、ご存知ありませんで
したか。今年、四十四歳になる本格派です」
「作家と評論家の間で揉めるとなると、やはり書評のことで?」
「まあ、そんなところです。お二人の間には、ミステリに対する考え方の違い
が元々あって、斉藤先生の作品を南北先生はあまり認めないでいましたが、一
年近く前に、ある作品のことで決定的な亀裂が入りました。斉藤先生の作品に
ついてではないんです。共通の先輩である物故作家の遺作に、南北先生が非常
に厳しい評価を下したのがきっかけです。その物故作家を尊敬する斉藤先生が、
これに立腹されたようで、三ヶ月ほど月刊誌で言葉の応酬があって、ある意味、
盛り上がったんですけど……悪口、罵詈雑言レベルになってきたため、誌上で
のやり取りにストップが掛かり、そのまま絶縁状態に」
「殺意が芽生えるほどのもんですか、それって」
 信じられないとばかり、首を捻る刑事。その様を目の当たりにして、香取も
同調の意を垣間見せた。
「実際に殺すとなると別ですかね。けど、殺すところを空想するぐらい憎み合
っていた時期はあったんじゃないかなあ」
「なるほど。でも、絶縁状態なら、斉藤という作家先生が、被害者のこの家に
上がるのは無理なんでは?」
「ああ、それはそうかもしれません。体力的には、若い斉藤先生の方が上回っ
てたでしょうから、無理矢理上がり込むことはできるでしょうけど」
 編集者が列挙した三名は、いずれも動機があると言えたが、決定的なもので
はない。それでも名前を出されたからには、調べぬ訳にはいかない。より詳し
い個人情報を、香取の知る限り聞き出した。

 南北砕郎の死亡時刻は、遺体発見前夜、つまりは七月二十八日の午後十時か
らの二時間と推測された。十一時前後が濃厚とされるが、確定には至っていな
い。
 これに伴い、容疑者として名前の出た三名のアリバイが検討された。
 中見麻里は、翌日に大事な商談を控えていたため、二十八日は馴染みのヘア
サロンに午後九時から予約を入れ、時刻通りに姿を現した。ヘアマニキュアを
含めた全ての施術が終わったのが二時間半後。それからは車で午後十一時五十
分に帰宅。ヘアサロンでの証人は複数いるが、車は自らが運転し、また一人暮
らしであるため、十一時三十分以降の行動を裏付けるものはない。ヘアサロン
から犯行現場の南北宅までは、車でおよそ十五分あれば行けるので、どうにか
犯行推定時刻内に収まる。
 有村吉男は、市役所の勤めを終えていつも通り午後六時に帰宅後、ずっと家
族(妻と息子)と一緒だった。無論、家族の証言をそのまま信用することはで
きない。一方で、近所の住人が帰宅する有村を目撃しており、また、日付が変
わって午前0時の時点で、隣家の主が有村と鉢合わせしている。互いにごみ出
しに出て来たのだ。そこで重要になるのが、やはり有村の家から南北の家まで
の移動時間。実測してみた結果、夜でも車を使って一時間二十分は要する距離
がある。九時二十分以前に自宅を車で出発し、十時四十分までに犯行を終えれ
ば間に合う計算になる。ただし、有村の家は住宅街にあり、自家用車の出し入
れは確実に気付かれる。当夜、有村の帰宅後に車の出ていく音を聞いた者は皆
無だったので、もしも彼が犯人であるとしたら、タクシー等を利用した可能性
が強い。
 斉藤龍輝は、締め切り間近の仕事を抱えていたとのことで、朝から晩まで自
宅にいたと主張した。彼もまた一軒家に独り暮らしだが、証人はいた。午後十
時に宅配の荷物を受け取っている。一日中在宅していたのに、受け取りが夜遅
くになるのは変だと刑事が突っ込むと、「執筆に差し障りがないよう、インタ
ーフォンを切っておいた。休憩時に郵便受けを覗くと、不在のため荷物を持ち
帰った旨を告げる通知票が入っており、そこにあった番号に電話して夜十時に
届けてもらった」という答が返って来た。斉藤宅から南北宅までは、車で二時
間。十時に自宅にいた斉藤が、荷物を受け取ってすぐに出発しても、南北宅に
着くのは午前0時を過ぎる。死亡推定時刻に多少のずれがあったとすれば、ぎ
りぎり犯行可能かもしれないが、いささか無理のある、あるいは警察にとって
都合のよい解釈と言えた。ただ、推理作家である斉藤が、何らかのトリックを
用いた可能性は捨てきれない。
「死亡時刻をもっと絞り込めればいいんだが」
 ソファに身を沈め、事件の概要を語った刑事は、最後に呟いた。
 窓辺に立っていた天田才蔵(あまださいぞう)は、これに反応してぴくりと
眉を動かした。名探偵を自負する天田は、すでに大きな手掛かりを得ているよ
うだった。
「一つ、教えてもらいたいんだが」
 振り返って問うてくる天田に、刑事は目を輝かせた。難航を予感させる事件
に、刑事は早々と天田の探偵事務所に足を運び、相談を持ち掛けたのだ。
「何でも聞いてください。今分かる範囲で答えるし、分からなくても調べてお
きますよ」
「被害者は文字を打ち込む際、ローマ字入力だったか、それともかな入力だっ
たか」
「ああ、それくらいは把握済み。書きかけの原稿が偽造でないことを確かめる
ため、入力方法から使用語彙、文章の癖まで検討したが、怪しい点は全くなか
った」
「そんなことを言及してるんじゃない。とにかく、何入力なのかを教えてくれ」
「あ、ああ。ローマ字入力、です」
「結構。そりゃ都合がいい」
 にやりと音が聞こえてきそうな笑みを浮かべると、天田は満足そうに手揉み
した。刑事の正面に位置するソファに腰を下ろすと、続けて尋ねた。
「それでは、書きかけの文書が保存された履歴についても、細かく調べてある
のかな?」
「自動保存が働いているから、あんまり関係ないとは思いましたが、一応は。
最後の保存は設定による自動保存で、二十九日の二十二時二十八分。夜十時半
頃ってことだな」
「ふむ。ということは、犯人は、少なくとも午後十時十八分の時点で殺害を成
し遂げていたと見なせる」
「な、何故?」
 いきなりの断定に、刑事は多少の動揺を見せた。腰を浮かせ気味にし、次の
説明を待ち望んでいる。
「犯人がディスプレイの文字を消したのが、その時刻だからさ」
「……まだよく分からない」
「これから説明するから、黙って聞いておけばいい。犯人は、パソコンの画面
に、自分の名前を入力されていることに気付いたんだ。死に行く者による伝言、
ダイイングメッセージというやつだ。犯人は当然、その名前を消去するに決ま
っている」
「ま待ってください。名前を書き残されたら消すのは分かる。だが、被害者が
ダイイングメッセージを残したと、どうして言い切れます?」
「それこそ、現場にあったパソコンの書きかけの文書を読めば、一目瞭然じゃ
ないか」
 天田は、あたかもそこに問題のパソコンがあるかのように話した。
「文書の最後は、どうなっていた?」
「ええっと、『密室トリッ』ですね。小さなツで終わっている。多分、密室ト
リックと書こうとしていたんだろう……あっ、そうか」
 天田の言いたいことをようやく察知できたらしく、刑事は再び目を輝かせた。
三つか四つほど若返ったようだ。
「ローマ字入力で日本語を打ち込んでいたのなら、最後が小さなツで終わるこ
とはない。現場にあった文書は、TORIKKUと打ち込んで、クを消してあ
った訳か」
 天田は我が意を得たりとばかりに、大きく首肯した。
「その通り! 保存が自動で行われたのなら、最後に文書に手が加えられたの
は、十分前の十時十八分だ。そして被害者には、クだけを消す理由がない。そ
れでは犯人には消す理由があるか? あるとすれば、それはクに続いて犯人を
示唆する言葉が書かれた場合。名前をずばりと書いたかどうかは不明だが、犯
人にとって非常に不都合な記述が、そこに書き足されたに違いない。悪運強く、
ダイイングメッセージに気付いた犯人は、急いで文字を消した。急ぐ余り、消
す必要のない『トリック』のクまで削除してしまったんだ」
「なるほど、絵が思い浮かぶようです。犯人としては、一刻も早く、現場を立
ち去りたいものだろうから、犯行時刻もその近辺になる」
「ややこしく考える必要はない。二十八日の夜十時十八分に、殺害現場にいる
ことができた。これこそが、犯人の条件だよ」
 天田の言を受け、刑事は容疑者三名のアリバイリストを検討した。
 中見はヘアサロンで施術の真っ最中だから、アリバイ成立。
 斉藤は午後十時に目撃されており、現場へは車で二時間を要するため、これ
またアリバイ成立。
 彼ら二人に比べ、有村はどうか。翌日午前0時に目撃されており、現場にと
どまれるのは午後十時四十分が限度。二十二分の余裕がある。アリバイ不成立
だ。
「有村吉男か。殺意の強さでは一番だろうから、おかしくありません」
「勘違いしてはいけないのは、有村吉男はアリバイが崩れただけで、犯人と決
まったのではないということ。慎重に詰めることだね」
 天田は自信に満ちた口ぶりで告げると、ソファから立ち上がった。

「天田さーん。雲行きが怪しいですよ!」
 探偵事務所を再訪した刑事は、そこの主に恨めしげに声を掛けた。
「おや? どういうことかな。私の推理に何か穴があったとでも?」
「穴も穴、大穴です」
 刑事の遠慮のない言い方に、天田は顔を赤くした。ふんぞり返っていたデス
クの椅子を離れ、応接用のソファに移動してきた。テーブルを挟み、刑事と相
対する。
「推理通り、文書の保存時刻を根拠に、有村吉男を重要参考人として引っ張り
ましたよ。しかし、一向に落ちない。証拠探しも、行き詰まった。そんな折、
推理作家の斉藤龍輝が、有村に嫌疑を掛けた理由を聞きつけ、異議を唱えてき
たんですよ、まったく」
「わざわざ他人のために? 出しゃばりな推理作家め……」
 口の中でぶつくさ言った天田だったが、すぐにかぶりを振って、「ふーん、
それはどんな異議で?」と聞き返した。
「『ダイイングメッセージが書かれたと、本当に言い切れるか』というんです。
言い換えれば、小さなツが文章の最後になる理由は、それ以降の文字を犯人が
消した場合以外にもあると」
「どんな場合があると言ってるんだ、作家先生は」
「いくつも挙げられましたよ。たとえば、単なるタイプミス。仮に、『密室ト
リック』と打ちたいのに、『密室トリッキ』になってしまったとする。当然、
被害者はそこで手を止め、キを消す。消したちょうどそのとき、他の用事が入
ったらどうするか。用事の重要度にもよるが、『トリック』と訂正するのを後
回しにして、新たな用事に専念することもあるだろうとの理屈です」
「……」
 天田は沈黙のままソファを立つと、その周囲をゆっくり一周した。元に戻っ
て、やっと口を開く。
「どんな用事があると言うんだろう? 犯人の他に来訪者があったのか?」
「それは色々です。犯人以外の来訪者がいれば、名乗り出てくれてもいいのに
何もないし、目撃証言も皆無なのは、そんな来訪者がいなかった可能性大でし
ょう。でも、何も来訪者じゃなくていい。電話かもしれないし、被害者は何か
閃いたのかもしれない。テレビの内容に興味を抱き、デスクを離れただけなの
かも」
「ということは、犯人自身が訪れたのかもしれないとも言える訳だ」
 自信を取り戻したのか、笑顔になる天田。しかし、刑事の表情は暗い。
「それぐらい、我々も思い付きましたっ。仮に犯人の来訪を受けて、被害者が
手を止めたんだとして、じゃあ犯行時刻はいつ? 犯人が現場を立ち去ったの
はいつ? 推理を組み立てようにも、状況の解明につながらない。結局、自動
保存の時刻を基準に、犯人が来訪したと見なすこと自体に無理があるんだっ」
「うう」
 返事に窮した天田だったが、まだ自説への拘りを捨てられないでいた。
「被害者は十時十八分以降、文書に手を付けることなく、新たな用事にかかり
切りになるなんて、あり得るだろうか? その直前か直後に殺害されたと見な
すのが、蓋然性の高い選択であり、充分に有意な推理だと思うのだが」
「苦しいな。仮にそれを認めたとしても、容疑者は落ちやしませんよ。一旦、
穴があるとしれた網に、いつまでもかかり続ける獲物はいないってこと」
 刑事は打ち切りを宣言するかのように、両手を打って音を立てた。
「別に、天田さんの能力を見限った訳ではありません。今回は、勇み足だった
というだけで、頼りにしています。何か思い付いたら、是非ともご一報をお願
いします」
 慇懃丁寧に告げると、刑事はここで油を売ってはいられないという風に、そ
そくさと出て行った。

           *           *

――続く




 続き #473 裏返ったパッチワーク<後>   永山
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