AWC ペトロの船出 <下>   永山


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#471/598 ●長編    *** コメント #470 ***
★タイトル (AZA     )  15/06/30  20:45  (352)
ペトロの船出 <下>   永山
★内容                                         17/05/16 04:31 修正 第2版
 事件は、発生からちょうど一年が経過していた。
(解けというのなら、もっと早く回してくれた方がよいんだが)
 いつも抱く感想は飲み込んで、資料を読み進める。探偵作業に関する全ての
資料は、独房に持ち込むことを許可されており、じっくりと読み込める。
 被害者はペトロ・ロジオネスなる富豪で、造船業と運輸業で財をなしたとあ
る。ルバルカンは知らなかったが、かなり有名な人物らしい。三年前、つまり
死の二年ほど前に社長の座から退くと、経済・経営の専門家と称して、マスコ
ミに顔を出すようになっていった。そこから、ベテラン女優カリー・ドットソ
ンと面識を持ったことが、事件に発展したと見られている。
 当時、人気面では落ち目だったドットソンだが、ペトロから見れば、青年の
日にあこがれた美人女優であり、知り合えたことをこの上なく喜んでいたとい
う。どちらが積極的に誘ったかは定かでないが、二人は男女の仲となった。ド
ットソンは独身を通しており、またペトロも妻とは十年近くも前に死別してい
たため、モラル的には何ら問題のない付き合いだった。しかし、ペトロ・ロジ
オネスの子供らにすれば、内心穏やかでない。もしもドットソンと再婚したり、
彼女との間に子をなしたりしようものなら、将来入る遺産が減る。ペトロが後
継者を自分の子供の中から選ばなかった事実から推測できるように、この富豪
の三人の子ら――長男イジス、長女エルメス、次男ケンネス――は、揃いも揃
って経営の才覚を持ち合わせていなかった。それどころか、仕事に就かず、遊
び暮らす日々を送ってきた。そんな彼らにとって、ドットソンの登場は、人生
における初めての“厄介事”だった。
 それでもロジオネス家は、表面上の穏やかさを保っていた。カリー・ドット
ソンがペトロとの結婚に前向きでなかった内は。
 だが、半年後、ペトロの熱烈なアプローチに負けたのか、ドットソンは求婚
を受け入れた。
 ペトロは間を置かず、夏期休暇を利して家族が一堂に会する食事の席を設け、
婚約を皆に伝えた。機会を見て、世間にも公表するという。三人の子供らにと
っては、寝耳に水だったろう。女優が結婚に同意するとしても、何らかの前兆
があるはずと踏んでいたのに、全く感じられなかった。女優が演技していたの
ではと疑いさえした。とにかく、彼らにとって、恐れていた事態になりつつあ
ったのは間違いない。
 事件は、会食の翌々日に起きた。
 ペトロ・ロジオネスは海に関する事業で成功したこともあり、海を大変愛し
た。それ故、彼の邸宅は海に面した港に立地し、クルーザーで直接、海に出ら
れる構造を持っていた。その日は家族にお手伝い、航海士二名にケリー・ドッ
トソンを含めた九名で、二泊三日の短いクルーズに発つ予定になっていた。
 ところが、出発直前の朝八時過ぎ、ペトロは遺体となって発見された。海を
臨む彼の書斎で、肘掛け椅子に腰を下ろした姿勢のまま、毒入りのコーリーを
呷って死んでいた。
 その死に様は、一見、自殺に思えた。書斎のドアと窓は全て内側からロック
されていたためだ。しかし、遺書がなかったこと、ひいては婚約したばかりで
自殺する理由が見当たらないことから、犯罪が疑われた。
「容疑者は、前夜から邸宅にいて寝泊まりしたイジス、エルメス、ケンネスの
子供三人に、ケリー・ドットソン、お手伝いの二人に運転手、それから弁護士
の合計八人。航海士達はいなかったと。それに、邸宅には防犯カメラが設置さ
れていて、八人以外に出入りする不審者はなかったと分かっている、か」
 注釈によると、弁護士は婚前契約の諸々を考えるために呼ばれたとある。ペ
トロとドットソンは、もしも将来別れることになった場合の慰謝料に関して、
予め決めておくつもりでいたようだ。この弁護士と運転手は、クルーズには同
行しないことになっていた。
 使われた毒は青酸系の薬品で、ブラキッドほどではないが、即効性がある。
ロジオネス家との関連で言えば、メッキ工場で青酸ソーダが使われている。管
理体制はしっかりしているものの、例外的にペトロ自身が若い時分、“事業の
成功に命を賭ける”決意の証として、青酸ソーダを持ち出し、自宅で保管して
いた。その在処が、ペトロの死亡により不明となっていた。本当に自殺だとし
たら、この保管分が使われたに違いないし、他殺でも可能性はある。
 一方、ケリー・ドットソンは、二代前の元マネージャーが薬学部出身で、こ
の線から毒の入手は可能ではないかと疑われるも、元マネージャーは否定。証
拠もない。
「えっと、コーヒーカップは残っていたんだよな……変だ……」
 あることに気付き、独りごちるルバルカン。心の中で続ける。
(自殺であれ他殺であれ、自宅で保管していた毒を使ったのだとしたら、当然、
容器があるはず。その容器は、ペトロの書斎の机にでも放置されてるのが自然
じゃないか? わざわざ仕舞う必要があるか?)
 自問するも、答は出ない。だからといって、ロジオネス家に保管されていた
青酸ソーダが使われなかったとは、断定しづらい。
(女優の元マネージャーの線も薄そうだし……)
 もやもやを抱えたまま、コーヒーについての記述を読む。
 亡くなったペトロはコーヒー好きで、拘りがあった。決まった銘柄を愛飲す
るのではないが、濃いめを好んだ。他の飲み物ならお手伝いに運ばせるが、コ
ーヒーだけは自分で入れる主義だった。そのための簡易キッチンを、書斎の片
隅に特注で作らせたほどである。死んだ日の朝の一杯も、彼自身が入れた物と
推測されている。
 キッチンのゴミ入れには、入れたあとのコーヒー豆の残滓があったが、分析
しても、毒は検出されなかった。コーヒーメーカーも調べられたが、同様に何
も出なかった。殺人だったとして、前もってコーヒー豆に毒を混ぜたり、コー
ヒーメーカー内部に毒を塗布したりといった方法は、採られなかったことにな
る。
 次の項目、密室に移る。見取り図や写真付きで、ペトロの遺体が見つかった
書斎について、細かく説明されていた。
 窓は海を一望できる大きな物が一つに、ベランダに通じるフランス窓が一つ、
小窓が二つあった。この内、大きな窓ははめ殺し、小窓は小さすぎて人は出入
りできない上に、スライド式の二重ロックがしっかりと掛けられていた。フラ
ンス窓の方は、普段は、金属の細い棒を受け金に落とすだけの簡単な鍵で済ま
せていたのだが、それとは別に鍵穴があり、内側から鍵を使ってしか掛けられ
ない。遺体発見時は掛けられていた上に、鍵穴に鍵が差し込まれたままだった。
(自殺なら、普段のように掛け金だけにするか、それとも自殺だからこそ、よ
り厳重に鍵を掛けようとするものなのか)
 ペトロ・ロジオネスと接した経験が皆無のルバルカンには、全く想像が付か
なかった。
 書斎のドアの鍵は、古めかしいシリンダー錠で、ペトロがドアのデザインを
気に入っていたので、新式の鍵に取り替えることはなかったという。遺体発見
時、ここの鍵も掛かっており、お手伝いが合鍵を持って来て開けた。合鍵自体
は、金庫で保管されており、二つの暗証番号を入力しなければ開けられないシ
ステムが採られ、二名のお手伝いが一つずつ暗証番号を覚えている。換言する
と、お手伝い二人が揃わないと、合鍵を持ち出せない仕組みという訳だ。
 なお、ペトロが日頃使っていた鍵は、遺体の着ていたガウンのポケットから
見付かっている。
(部屋にはこれといった隙間もないようだし、読む限りじゃ、密室を作れるの
は、お手伝い二人が協力したときだけか。しかし、お手伝いには動機がない。
その上、主人の死によって、職を失っている。充分な手当は受け取ったようだ
が、事件で悪いイメージが付いたのか、再就職はかなっていないようだ。ペト
ロとの主従関係も良好だったとあるし、殺すのは引き合わない)
 絶対確実なロジックではないが、お手伝いは犯人ではないとの印象を、ルバ
ルカンは強めた。
(こうまで強固な密室となると、遺体発見時に誤魔化しがあったか、嘘があっ
た可能性が高い。ドアを合鍵で開けたとき、その場にいたのは――)
 書類に目を走らせる。ほしい情報はちゃんと載っていた。お手伝い二人に弁
護士、三人の子供達、そしてドットソン。
(何だ、ほとんど全員じゃないか。では、書斎に足を踏み入れたのは……弁護
士が真っ先に入り、異変を察知。女性は見ない方がいいと叫んだこともあって、
お手伝いとエルメス、ドットソンが廊下に残った。イジスとケンネスが入り、
ペトロの死を確認。ガウンのポケットから鍵を見付けたのは……警官か。とい
うことは、警察の到着まで、書斎が密室だったと意識されてはいなかったか。
そんな状況なら、遺体発見の混乱に乗じて、ポケットに鍵を滑り込ませるくら
い、訳なくできそうじゃないか。警察だって、その程度の想像はできるはず。
容疑は弁護士と息子二人に絞り込めるだろうに、一体、何に手間取って犯人を
特定できないんだろう?)
 読み進めると、じきに理由が分かった。警察が到着するまでの間に、エルメ
スとドットソンも、書斎に入り、ペトロの遺体に触れているのだ。その際に監
視の目があったかどうかは記述がないが、女性二人にも鍵をポケットに入れる
チャンスはあったと見なせる。
(それにしても、妙な事件ではある。最初っから、何となく頭の片隅に引っ掛
かっていたが……どうして犯人は、陸地で殺したんだ? クルーズに出ること
が決まっているのだから、出航後、機会を見て被害者を海に突き落とせば事足
りるのでは。確実性に欠けるというのなら、睡眠薬を飲ませてから突き落とす
か、あるいは殺してから海に投げ込んだっていい。遺体はしばらく発見されず、
事故とも他殺とも自殺とも断定できなくなるのは間違いない。
 このようなケースでは、犯人は、被害者が死んだという事実が早くほしかっ
たということが考えられる。海に落ちて行方不明となったのでは、死が確定す
るまで半年ほどかかる。それまで遺産なり保険金なりが手に入らない。関係者
の中に、早急に金が必要だった者がいるのか……)
 急いで読み進めるが、そのような注釈は見当たらない。三人の子供達もドッ
トソンも弁護士も、当座の金には困っていない。借金を抱えているとか、病気
の身内がいるとか、使い込みがばれそうだった等のドラマめいた秘密は一切な
し。
(警察が一年間捜査してこれなのだから、信用していい。他に考えられるのは
……クルーズに同行しない人物が犯人である場合だな。ガウンに鍵を戻せて、
クルーズに同行しない関係者は、弁護士だけ。動機がないが、理屈だけなら、
弁護士が犯人ということになる。あ、いや、青酸毒の入手が難しいか。ロジオ
ネス家の顧問弁護士であっても、ペトロが密かに保管していた毒の在処までは、
知らなかっと見るのが普通……。ペトロが保管場所を打ち明けるとしたら、同
じ家に住む者、特に家族相手だろう。誤って摂取しないよう、注意を促すべく、
毒だと明言しないまでも、危険物として教えることはあり得る。そしてそのこ
とを事件後、誰も言い出さないのは、疑われると分かっているから?)
 推測を重ねるのにも限界が来たようだ。レイ・マルタスの行動力を頼みとせ
ねばならない。
 ルバルカンは指示をまとめると、獄卒にマルタスへの伝言を託した。

 五日後、マルタスからの返事が届けられた。
<取り急ぎ、以下にご報告します。
 指示通り、関係者一人一人に会い、「ペトロ・ロジオネスが服用した青酸ソ
ーダは長期間、空気にさらされていたことが判明した」と鎌をかけたところ、
・その意味を解さなかったと思しき者……ケンネス、お手伝い二名、運転手
・意味を解し、ペトロの死因は何であったのかを尋ねてきた者……イジス、エ
ルメス、弁護士
 と反応が分かれました。
 さらに、意味を解した三名の内、イジスは「そんな馬鹿な」、弁護士は「ま
さか」との第一声を漏らしました。エルメスは「ふうん。それっておかしくな
い?」でした。
 次に、ペトロ・ロジオネスの化学知識ですが、彼の学生時代の友人らに尋ね
て回った結果、一般素人よりもわずかに上といったレベルだと推定します。た
とえば、「青酸毒は酸化により無毒化する」といった知識は持ち合わせていた
ようです。
 それから、ロジオネス邸はすでに売却され、人手に渡っておりましたが、ペ
トロの書斎は“著名人の亡くなった場所”として、使用されることなく封印。
実際のところ、警察の要請もあったようですが、とにもかくにも、ほぼ当時の
状態を保っている模様です。
 そこで、ブラウベ署長に、書斎の簡易キッチンの排水溝を調べていないかと
問い合わせると、否との返答でしたので、至急、調査を行ってもらいました。
それについての結果は、署長ご自身が伝えるとのことです。>
 報告は終わったが、文章はまだ少し続いていた。挨拶のようなもので、今は
とりあえず読み飛ばす。
(さすがに、この程度の鎌かけでは、ペトロが隠しておいた毒の在処を知って
いたような反応を示す輩はいなかったか。それでも充分に興味深い。イジスと
弁護士の反応は、「毒殺したつもりだったのに、無毒化していたのなら話が合
わない」あるいは「あれだけ厳重に密閉された容器に入っていた毒が酸化して
いただと?」という驚きに受け取れる。無論、他の意味にも解釈可能だが。
 それよりも困ったのは、ペトロの化学知識のレベルだ。長期間空気にさらさ
れれば確実に無毒になっていると思い込んでいたとしたら……仮説が増えてし
まう。いや、案外、これこそが本命なのか。……ブラウベ署長が早く来てくれ
ることを願おう)
 ルバルカンの願いは、半日と経たずに叶った。
 夕刻になって監獄に到着したブラウベ・フィエリオは、多少上気した顔で、
面会室に姿を見せた。
「排水溝だが、どうにか一年前の状態を保っていたようだよ」
 前置きなしに始めるブラウベ署長は口を開いた。
「青酸ソーダを液体、恐らく水に溶かして流したと思しき形跡が確認できた。
ごく微量の粉末も見付かり、酸化した青酸ソーダだと判明したものの、これが
いつの時点で酸化していたのかは特定不能だった」
「それは仕方ありません。一年が経っているのだから。ただ、一年前、事件発
生直後の段階で排水溝を調べていれば、事件の核心に迫る発見があったかもし
れない」
「その点については、弁解のしようもない。毒の入ったコーヒーが現場にあり、
毒の容器が見当たらなかったことや、コーヒー豆の残り滓などから毒が検出さ
れなかったことから、自殺ならペトロが毒を使い切った、他殺なら犯人が持ち
去った、そう思い込んで捜査を進めてしまったようだ。私の管轄ではないが、
事件の真相如何では、誰かが責任を取る必要が生じるだろうね」
「それは、警察にとってまずい真相なら、ねじ曲げてくれという意味?」
「いや、違うよ」
 ブラウベは苦笑を少し覗かせた。
「君は君の意志で結論を出してくれていい。私はそれを報告する。そしてねじ
曲げられそうになったなら、ねじ曲げられないようにする」
「分かった。安心した」
 ルバルカンも小さな笑みを返すと、再び表情を引き締めた。
「実は、二つの説を組み立てて、迷っている」
「聞かせてもらいましょう」
「一つ目は、恐らく警察も一度は辿り着いたであろう説。あ、他殺を大前提に
している。海上で殺して遺体を海に捨てるというメリットを採らず、邸宅で殺
害したのは、クルーズに同行する予定のなかった者の仕業。遺体の発見者を装
って鍵をガウンに戻す方法で密室を構成できるのは、発見時に居合わせた六人。
両条件を満たすのは、弁護士だけだ」
「弁護士には動機がない」
「法的な書類作成に関することが動機だとすれば、ペトロが死んだあと、弁護
士はどうにでも細工できる。動機の存在自体を隠せるだろう。クルーズから戻
るのを待たずに殺したのも、契約か何かで日付の都合があったと考えれば、筋
は通る」
「青酸ソーダをどうやって手に入れた?」
「弁護士は、犯罪者とも知り合う機会は多い。資料によれば刑事事件を担当し
た経験もあるから、弁護を受け持ってやった犯罪者を通じて、毒を入手できた
可能性はある」
「……なるほどと言いたいが、採用しがたいな。丸い穴に四角い物体を無理矢
理通そうとしている感じだね」
 ブラウベが正直な感想を述べると、ルバルカンも「やはりそうか」と応じた。
「ブラウベ署長、あなたは思いやりから敢えて突っ込んでこなかったんでしょ
うが、今のは他にも難のある仮説です。この事件が他殺なら、犯人は自殺に偽
装しようとしてる。なのに、毒の容器を現場に残さないというのは、手抜かり
に思える」
「確かに。死んだペトロが必要な分だけを用意し、使い切ったというのは、無
理筋だね。少なくとも、包装紙が残っていなくてはならない」
「ええ。それに、私見ですが、弁護士が密室殺人を企てるというのが、しっく
り来ない。私の知る弁護士は、程度の差はあっても現実主義に根を下ろしてい
る。そんな人種が、自殺に見せ掛けるためだからといって、密室をこしらえる
ものだろうか? 疑問、と言うよりも違和感が拭えません」
「論理的でなく心情的だか、よく理解できるよ。ではもう一つの説は?」
「もう一つの説も、難がないとは言えませんが……とにかく、話してみましょ
う。当日の朝、ペトロはいつものようにコーヒーを自分で入れた。そのとき、
仕事に対する自身の決意の表れであった、青酸ソーダの処分も行った」
「うん?」
 眉を動かして反応したブラウベだったが、それ以上は口を挟まず、続きを待
った。
「正確な年数は把握してないが、ペトロが事業で成功を収めてから、何十年も
経っているでしょう。そんな人物に、いつまでも決意の毒が必要とは思えない。
多分、ある頃から毒をさほど厳重には保管しなくなったと想像します。いや、
家人の手の届かないよう、隠していたのは確かでしょう。けれども、万が一、
彼の死後、毒を毒と理解しない者、たとえば幼子が毒を見付けたとしたら、非
常に危険である。その危険をなくそうと、容器の密閉状態を緩めた。そう、酸
化を促すために」
「まあ、子供ができたタイミングで、そんな風に考えることはあるかもしれな
いね」
「毒をさっさと処分しなかったのは、簡単にはできないことと、もしも処分し
たことで会社の経営が傾きだしたら……と想像して、捨てられなかったんだと
推察します。ともかく、ペトロは毒を無毒化させるつもりで保管しておいた。
そして、出航の朝、処分を思い立った。新たな婚約者を迎え、船旅に出る。文
字通り、旅立ちの日と呼ぶにふさわしいタイミング。今なら処分できる。そん
な心の動きだったのではないか」
「待て。つまり、何だ……ペトロ・ロジオネスは、青酸ソーダを簡易キッチン
に流すことで処分した。だが、その粉末だか固形物だかは完全には無毒化して
いなかった。しかも運の悪いことに、準備していたコーヒーに、毒が混入した
と言いたいのか、ルバルカン?」
「はい。察しがよくて助かります。あるいは、毒性がないと思い込んで、わざ
とコーヒーに入れた可能性もゼロではない」
 表面上笑ってみせたルバルカンに、ブラウベは直ちに、唾を飛ばさんばかり
に反論を開始する。
「いただけないよ、名探偵。こいつは一番目の説に劣る。何故って、容器の問
題はどうしたんだ? 君の今言った説が事実なら、容器がどこかに残っている
はずだ。容器が何製か知らんが、押し潰してごみ箱に投げ込んだとしても、書
斎にあるのは間違いない。窓を開けて、海に投げ捨てたなんて馬鹿は言わない
でくれたまえ。ペトロ・ロジオネスは海を愛する男だったのだ」
「言いません。念のため、見取り図を参考にざっと計算してみましたが、海に
投げ捨てるには、クルーザーの係留している地点まで出て行く必要がありそう
です。書斎のベランダから投げても、海に届くか怪しい。届いたとしても、問
題の容器が水に浮かぶようなら、すぐに発見される可能性大です」
「そこまで考えが及んでいながら、どうして――」
「そもそも、今までに話した第二の説だと、部屋が密室であるのは変でしょう」
「……言われてみれば、窓はともかく、ドアの鍵を掛ける必要はないようだ。
いや、窓にしたって、鍵穴に鍵を差しているのはおかしい」
「一つずつ片付けますと、まず、窓の鍵は、これから出航するのだから、きち
んと施錠していても、おかしくはない。ペトロ自身が鍵を掛けたと推定します。
ドアはどうか。コーヒーを飲むためだけに、わざわざ施錠するものか。飲んで
るときに、他に用事を思い付き、お手伝いを呼ぶとすると、鍵をペトロが開け
てやる必要が生じる。実に非合理的です。普段は、鍵を掛けていなかったと推
定します」
「うむ。あとで使用人達に聞けば分かるだろうが、その推定に異論はない。だ
が、それを認めれば、密室はなかったことになってしまう」
「事実と反するのは、何らかの理由がある。今回は、ペトロ以外の人物が関与
したと見なすのが、妥当でしょう。その人物は殺人犯ではないが、ペトロが死
んでいるのを見付け、ある細工を施した」
「それは八時過ぎに、六名が遺体を見付けたときのことを言っているのかな?」
「違います。その人物は、八時よりも前の時点で、ペトロの書斎に入り、遺体
を見付けたという想定です」
「ああ……。その段階では、ドアの鍵は開いていたと」
「何の用事だったのか、呼ばれたのか、自らの意思で出向いたのかは斟酌の必
要がない。その人物――Xと呼びましょう――が単独で書斎に入り、ペトロの
遺体を見付けたことが大事ですから。Xは遺体や部屋の状態を見て、こう考え
た。『ペトロ・ロジオネスは自殺した』と」
「え?」
 反射的に声を上げたブラウベだったが、短い間黙考し、合点した。
「そうか。机の上にコーヒーカップがあって、毒の容器があって、ペトロは椅
子に座ったまま絶命している。覚悟して毒を飲んだように見える」
「ショックが過ぎ去ると、Xは次に金の計算を始めた。そう、生命保険です。
自殺では保険金が下りない、あるいは額が少ない。そんなのはごめんだと、ペ
トロの死を他殺に見せ掛けようと、行動し始めた」
「それはおかしい。現場を密室にして、より自殺らしく見えるようにしたので
はないのかね」
「それだと、毒の容器を持ち去った理由が説明できない。Xはまずは毒の容器
を始末しようと、書斎から持ち出した。その際、他の人物に遺体を見付けられ
ることがないよう、外から部屋に鍵を掛けた」
「なるほど。そうつながるんだね。しかし思惑とは裏腹に、他殺の偽装が全く
できない内に、合鍵で開けられてしまった。やむを得ず、作戦変更。鍵を持っ
ているのがばれると、殺人犯と見なされる。そこで皆の目を盗み、鍵をガウン
のポケットに戻した訳だ」
「想像がほとんどで、物証に乏しいが、一番辻褄が合うのはこの説だと考えて
いる。どうですか」
「説得力はそれなりにある。しかし、その細工をしようとした人物、Xを見つ
け出さない限り、上を納得させるのは難しい」
 ブラウベが腕組みをすると、ルバルカンは仕切り板に片手を掛けた。
「信じて動いてもらえるのなら、多分、特定できます」
「どうやる?」
「Xは、毒の容器の始末だけはやり遂げたはず。まさか自分の身近に置いてお
くとは考えにくい。邸宅の外に捨てに行った可能性が高いんじゃないか。とい
うことは、防犯カメラにその姿が映っている。朝八時より前に」
「そうか。防犯カメラの映像なら、今も保存されている。繰り返しチェックし
たはずだが、容器の始末という観点で見ていなかったからな」
 ブラウベ署長は立ち上がると、一旦席を離れ、部屋の外に出た。ペトロ・ロ
ジオネス殺人事件の担当部署に、捜査すべき事柄を伝えてから、急ぎ足で戻る。
「どうでした?」
 ルバルカンの問いに、ブラウベは座りながら苦笑を返した。
「そんなに早くは分からないさ。だが、手応えはある。近い内にはっきりする
だろうね」
「これで解明となることを期待していますよ」
 そうして息をつくルバルカンは、頭を片手で掻きながら、再び口を開いた。
「ところでブラウベ署長。ここ最近、持ち込まれる事件に偏りが感じられるん
ですが……」
「偏りとは、一体どんな?」
 口を丸い形にし、首を傾げてみせるブラウベ。
「密室における毒死が続いている。これってもしや、私にアニータの事件を解
く気を起こさせようと、刺激を与えているおつもりでは」
「何を言い出すかと思ったら」
 肩をすくめるブラウベ。横を向き、笑いを堪えるポーズを取る。
「偶然だろう。意図的に似た事件を持ち込もうにも、私にそんな権限はない。
決めているのは、実質的に、国王なのだから」
「では、あなたが国王に口添えしてくださっているのではありませんか」
「……具体的なことは何もしておらん」
 ブラウベは真顔になり、ルバルカンに向き直った。
「ただ、サン・ルバルカンを窮地から掬い上げてやってほしいとの意見は、常
に出している。密室における毒死事件が続いているのなら、ひょっとすると、
私の意を国王が汲み取ってくださったのかもな」
「……ありがとう。期待に添えるよう、奮起に努めるよ」
 ルバルカンは小さく笑い、大きな動作で頭を垂れた。

――終わり




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