AWC 一瞬の証拠 1   寺嶋公香


        
#468/598 ●長編    *** コメント #271 ***
★タイトル (AZA     )  14/11/20  23:06  (500)
一瞬の証拠 1   寺嶋公香
★内容
 夏期休暇に入ってすでに三日。マンションはいよいよ静かになりつつあった。
「要するに、それだけパパママ恋しい奴が多いってことさね」
 人が減る度に寂しくなるねと言ったブルック・セラーに対し、エイデン・ダ
グズが批判めいた口調で応じた。続けて、
「自分が里帰りしないからこそ、言いたい放題言えるんだけどね」
 と、笑いを混ぜるのを忘れない。
「本当に全然戻らないつもりなの?」
「決めてないだけで、気が向いたら帰るかもな。何せ、親は放任主義の見本み
たいな育て方をしてくれたから、顔を見せに来いとすら思っちゃないよ、きっ
と」
「そんなこと言ってるけど、ほんとは課題が片付きそうにないから、とかじゃ
ないの?」
「そりゃないな」
 ブルックのからかい気味の台詞に、エイデンは真面目に答えた。
「今の言葉で、思い付いた。自分一人だけがこのマンションに残り、創作に没
頭できるとしたら、何か新しい物が生まれるかもしれない」
「試せばいいじゃない」
「今年は無理だ。少なくとも一人、帰らない奴がいると知っている」
「誰?」
 問い返しながら、空になったグラスを回すブルック。氷が音を立てた。
「今、私達が待っている男だよ。ジョエルの奴、遅いな」
 時計を見たエイデン。ブルックもつられて確認する。午後一時ちょうど。約
束した時間になったところだった。三人揃って観に行く映画を何にするか、決
めようという他愛ない会議を開くことになっている。場所はここ、ブルックの
部屋だ。
「部屋には戻ってるはずだから、迎えに行くかな」
「電話でよくない? いきなり部屋に来られたら、迷惑がるかもしれないわよ」
「遅れるのなら、遅れる方が電話で連絡をよこすべき。そうしないってことは、
こっちから行っていいのだ」
 屁理屈をこねつつ、にやりと笑うエイデン。腰を上げた彼女に、ブルックは
しょうがないなと後に続くことにした。案外、廊下でばったり出くわすかもし
れない。むしろ、その可能性が一番高そうだ。
 二人は部屋を出ると、階段に向かった。ジョエルの部屋は一つ上の階にある、
六一〇号室だ。角部屋で、ブルックはまだ入ったことがないが、眺めはよいは
ずだ。すぐ下の五一〇号室、アイリーン・サンテルの部屋を訪れたことがあり、
そこからの眺望はとてもよかったから。アイリーンは脚本家志望で、特にミス
テリについて造詣が深く、面白いアイディアをいくつも思い付く。普段からメ
モを手放さないし、入手困難になった推理小説を常に探し求めている。そんな
彼女にとって、景色のよさは気分転換に効くらしい。
 二人はいつもに比べて極端に静かな廊下を進み、突き当たりまで来た。六一
〇号室の戸をノックする。
「おーい、何してるんだい? 美人二人と会えるのを想像して、変な気分にな
ったとか?」
 エイデンがふざけた口ぶりで呼び掛ける。返事はなく、エイデンはノックし
ていた手を止め、ノブを回した。
「あ、開いてる。ジョエル、いるのよね?」
 ずかずかと上がり込むエイデン。ブルックも「お邪魔します……」と唱えな
がら、遠慮がちに続いた。
 部屋の主の姿を求め、リビングに辿り着いた。そこに彼はいた。いや、正確
には、リビングの大きな窓を開けた向こう、ベランダに。
 ジョエルは外を向いているため、背中しか見えない。ブルック達に気付いた
様子はない。
「ジョエル、何してるのさ? 暑いからって、ベランダに出なくても風は吹き
込んでくるだろうに」
 エイデンの早口に、やっとジョエルが反応した。肩越しにふり向いたその顔
は、憔悴しきったという形容がぴったりと言えた。乱れた髪、充血した目、そ
の周りの隈、浮浪者のような無精髭……。見慣れたジョエル・キーガンとは全
く異なる。ブルックはショックですぐには言葉が出なかった。それはエイデン
も同様だったらしく、口をぱくぱくさせるのみ。
「遅かったじゃないか」
 ジョエルが言った。窓は開け放たれているので、よく聞こえる。ただ、口の
中が乾き切ったようなしわがれ声だったのが気になる。
「約束の時刻に姿を現さなかったら、君達は何分で様子を見に来てくれるのか、
予想を立てていたんだ」
「……そ、そうなんだ」
 やっと絞り出した感じの声でエイデン。
「思っていたよりは遅かったが、想定内だ。おかげで、これから予定通り、決
行できる」
「何をするつもり?」
 エイデンが足を一歩進めると、ジョエルはそれを拒絶するかのように、外へ
と向き直ってしまった。エイデンは再び足を止めた。
「僕はもう、ほとほと嫌になった。いくら努力しても先が見えない。自分の才
能に確信が持てない。だから、死を選ぼうと思う」
「え?」
「君達を待ったのは、見てもらいたかったんだ。人が死ぬ瞬間を目撃すること
で、何らかのよい影響を受けてほしい」
「ちょっと、それどういう――」
 エイデンとブルックが動こうとした矢先、ジョエルはより素早い動きで、ベ
ランダの柵に跨がった。
「それでは、しばしのお別れだ」
 今一度振り返った彼は、先程とは打って変わって笑顔をなし、そして身体全
てを柵の向こう側へ投げた。
「あ!」
「え」
 二人の短い悲鳴は、直後にしたずしんという地響きのような揺れに重なった。
すぐ近くに大きな力が加わったかのように、マンションが揺れた。
「ジョエル!」
 エイデンがベランダに走った。一方、ブルックは呆然としていた。足が動か
ない。立ったまま、腰が抜けたような感覚があった。
 ブルックの視線の先では、エイデンが柵から上半身を少し乗り出している。
ブルックは、エイデンまでもが落ちるのではないかと不安に襲われた。
「エ、エイデン……」
「――ブルック、あんたは大丈夫? こっちは見ない方がいい」
「じゃ、じゃあジョエルは」
「……落ちたわ。ここから見えるけど、あなたは見ない方がいいと思う」
 気が弱く、血に弱いと自覚しているブルックだが、見るなと言われると多少
の反発心も起きた。友人がどうなったのか、少しでもこの目で見ておきたい気
持ちが強まる。
「私にも見させて」
「……知らないよ、気持ち悪くなっても」
 エイデンの忠告を敢えて無視し、ブルックはベランダに出た。エイデンの隣
に立ち、下の地面が見えるようになるまで、頭を傾けた。
「――ひ」
 息を飲んだ。ここ六階から地面までは、二十メートルくらいだろうか。そこ
に横たわる人の形が見えた。顔ははっきりしないが、服はさっきジョエルが身
に付けていた物と同じらしい。首や手足が、奇妙な方向に曲がっている。血溜
まりができているか否かは判然としなかった。
 テスト期間に入る直前頃、このマンションではぬいぐるみに植木鉢、枕が落
ちる事故(もしくは落とされる事件?)が集中的に起きたが、そのどれよりも
禍々しい現場だった。
「本当に大丈夫?」
 エイデンの心配げな声とともに、彼女の手が肩に置かれた。ふらついて落ち
やしないか、心配されたのかもしれない。ブルックは声を出せないまま、首を
縦に何度も振った。
 エイデンは眉根を寄せ、お願いする風に言った。
「通報なんかは私がやるから、ブルックは部屋に戻った方がいい」
「……そう、かな」
 エイデンは力強く首肯し、ブルックとともに部屋の中に戻り、さらに廊下へ
出る。来たときと同じルートを辿って、ブルックの部屋である五〇五号室に着
いた。
「私はとりあえず、一階まで降りて様子を見てくるから。あなたはここで待っ
ていて。気分が悪くならない内に、横になった方がいいかもしれないよ」
「分かったわ」
 心の中でありがとうと付け足し、ブルックはエイデンを見送った。

           *           *

 やや大ぶりのバスケットを脇に抱え、数段のステップをしずしずと降りた彼
女は、ステージ上にいたときと同じように観客席を見渡した。栗色の髪を覆う
白のヘッドドレスが、今はスポットライトを浴びて眩しい。深緑色のドレスと
は対照的だ。
「お客様ども」
 彼女は言った。
「私を手伝いたいという者は、これから散らす花を拾うがいいです。拾った者
から選んでやるです」
 荒っぽさと丁寧さの入り交じった言葉遣い、高い声はきれいだが、口調はと
げとげしい。表情は見下すような笑顔である。
 彼女はバスケットを頭上に掲げ、空っぽであることを示すと、左小脇に戻し
た。そして中に右手を突っ込む。正しく、突っ込むという表現がふさわしい勢
いだ。と、再び右手が観客の目に触れたとき、そこには花が溢れていた。茎は
なく、つぼみの部分のみ。赤、黄、白といった様々な色の花は、全てバラ。
 彼女は腕を大きく振って、それらの花をまいた。客席がわっと沸く。手を伸
ばして取ろうとする人も多い。
 彼女は少し移動してから、また花をまく。これを三度繰り返した。ステージ
に近い前方数列の観客には、ほぼ全員に花が生き渡ったことだろう。
「念のために言っておくと、花は造花だから、永遠に枯れずに、美しさを保つ
です。私のように」
 すかさず、「造花と同じ、作り物の美しさ?」なんて声が飛ぶ。
 彼女はその声の方をきっ、と睨み付けると同時に、指差した。
「そこ! 何てことを言いやがるですか! 時間があったら訂正させてやると
ころです! が、今は暇じゃないので、特別に許してやるです。さあ、花を拾
ったお客様ども。色を確認しなさい。私がばらまいた色とりどり花には、一つ
しか入れてない色があるです。それを手にしたお客が今日これからの下僕にな
るです。栄誉に思いなさい」
 ざわざわする観客達を放って、とうとうと喋る彼女。
「一つだけしかない色は、本来、あり得ないとされてきた色。そう、『あり得
ないこと』『不可能』の代名詞にもなった青いバラ。青を手にしたお客は早く
立つように!」
 その台詞を聞いて、僕は急いで腰を上げた。僕の手の中には、彼女の言った
青いバラがある。
「あの、これ」
 恐らく聞こえないであろう小声で言いつつ、バラを持つ手を挙げる。彼女は
顔を僕から見て右に向けた。目が合う。同時進行で、僕の周りも明るくなった。
もう一つのスポットライトが当てられたのだ。
「名前は?」
「桜庭です」
「桜庭ね。よろしい。お客様ども、彼に拍手を」
 彼女は僕の手を引いて舞台へ――と思ったら、違った。手を引っ張って僕の
身体を前に持って来ると、小突くようにしてきた。「ほらほら早く上がるです」
と急き立てられる。短い階段を登って、舞台上へ押し出された。
「それでは手始めに――手から始めるとします」
 拍手が収まると、早速、彼女は言った。僕の右側に立ち、続ける。
「桜庭、右腕を肩の高さになさい。そう。手のひらを上に向ける。そうして、
手を開いて、さっきの花が皆からよく見えるように」
 言われる通りにした僕は、目で彼女の次の言動を窺った。こうして間近で見
ると、白い肌のきめ細やかさがよく分かる。独日混血と聞くが、今はライトの
せいか、まるっきり白人のようだ。
 彼女はポケットから黄色い薄手の布を取り出した。大きめのハンカチ、もし
くはスカーフだろう。薄いと言っても、向こう側が透けて見えるほどではない。
表裏を改め、何にも仕掛けがないことを示す。
 そしてハンカチを僕の右手に上から被せる、ほんの一瞬。すぐに取り払った。
すると、僕の手から青いバラはなくなっていた。彼女はハンカチを再度改める
が、バラが引っ付いているなんてことはなかった。観客席に、軽めのどよめき
が起きている。
 彼女は唇の両端を上向きにし、得意げな笑みのまま、僕の左胸を指差した。
ジャケットのポケットがある辺りだ。
「青いバラは、まだ桜庭から離れたくないみたいです。あなたのハートにしが
みつこうとしている。嘘だと思うのなら、ポケットの中を確かめてご覧なさい
な」
 右腕を動かしていいとの許可が出ていなかったので、僕は左手でポケットの
口を広げ、中を覗いた。そこにあるのは間違いなく、青いバラ。
「これ――」
 目で問う。彼女は「そこに入っている物を引っ張り出すです。そしてお客様
どもに見せて! さあ、早く!」と早口で急き立てた。
 僕はバラをつまみ出し、斜め上に掲げ持った。どよめきが大きくなり、拍手
が重なった。
 それらが収まると、微かだが客の反応が耳に届いた。「いつ入れられた?」
「ステージに上げるときじゃない?」なんて推測をしている。
 内心、僕は断言した。それはない、と。

 指定されたホテルのロビーで待っていると、案に相違して、マネージャーで
はなく、彼女本人が現れた。もちろん、帽子と眼鏡とウィッグで変装している
から、彼女がそこそこ有名なプロマジシャンと気付く人はいまい。
「何と呼べば?」
 挨拶の前に尋ねた。
「今は、ミドリ・ドミートリでかまわないです。それよりも、その質問、そっ
くりそのままお返ししたいです」
「ああ、さっき桜庭と名乗ったのは、本名を名乗ると、興味を持った観客がネ
ットで調べて、色々突き止めるかもしれませんから」
「納得です」
 僕と彼女――ミドリはエレベーターに乗り込んだ。彼女が押したのは八階の
ボタンと閉ボタン。ドアが閉まるや、会話を再開させる。
「仮名に桜庭を選んだのは、サクラと掛けた?」
「分かりましたか」
「日本語の勉強は怠ってませんから」
「お見それしました。ま、いきなりこんなことを頼んできたあなたに対する、
ちょっとした当てつけです」
「こんなことというのは、当日、急にサクラをお願いしたこと? それとも……」
「当然、前者ですよ」
 僕は苦笑いを浮かべていただろう。
 ミドリからコンタクトがあったのは、ひと月ほど前。それはいい。サクラの
件を打診されたのが昨日とあっては、急すぎるというものだ。
「見てくださる人達に、なるべくよい不思議を体験してもらうには、サクラは
立派な手段ですから。機会を見付けたら、できるだけ取り入れます。マジシャ
ンとして当たり前のこんこんちきです」
 彼女の日本語の勉強は、些か偏りがあるようだ。あるいは、舞台上でのトー
クに磨きを掛けるため、わざとやっているのかもしれないが。
 エレベーターが八階に着いた。八〇一と記されたカード型ルームキーをひら
ひらさせるミドリに付き従い、廊下を少し歩き、部屋の前へ。
 ミドリは解錠し、ドアノブに手を掛けてから、こちらを振り返った。
「これから部屋で話すことは、公にしてはだめ。秘密なのです」
「承知しました」
 ドアが開かれ、僕はマジシャンのシングルルームに足を踏み入れた。

「これから話すのは、私の友達が体験した不思議な、というよりも奇妙な出来
事。そして恐ろしくもあるです」
 ミドリは最近お気に入りになったという緑茶を僕に入れさせ、落ち着いてか
ら本題に入った。
「友達の名前は、ブルックと言うのです。多少気の弱いところがあって、血を
見るのがとても苦手。音楽業界を目指していたんだけれど、耳を悪くして、断
念した過去があるです」
「あの、喋りづらければ、日本語でなくても大丈夫ですよ」
「――スワヒリ語でもですか」
 冗談なのだろうが、まさかの提案に一瞬びっくりした。笑いながら応える。
「それはちょっと……正確なニュアンスを掴みかねるかな。ミドリ、あなたの
得意なドイツ語か英語でいかがです?」
「それじゃ、お言葉に甘えてやるです。――奇妙な出来事が起きたのは学生マ
ンションで、話に登場する学生は皆、ここに入居している……亡くなった人も
いるので、入居していたと言うべきかも」
「ちょっと待った。日本での話?」
「ううん、アメリカ。先月、滞在したときに、ブルックと会って」
「ブルックさんが体験をしたのは、いつのことです?」
「確か、さらに遡ること、三週間程よ。サマーバケーションの頃。だから、マ
ンションにもあまり人は残っていなかったそうよ」
「把握しました。続けてください」
「ブルックは耳を悪くしてから、美術の方面に進んだの。堅苦しいのじゃなく
て、映像作品のグラフィックね。入った学校もそういう映画関係のところで、
映画監督や脚本家や俳優志望の人達といっぱい知り合ったと言ってたわ。今度
の話に主に関係するのは、その内の二人。一人は男性でジョエル・キーガン。
アクション物が好きで、アクションスターを目指すようになったって。映画の
好みは、ブルックとは合わないんだけれど、ジョエルの方から積極的にモーシ
ョンを掛けてたみたい。もう一人は女性で、ブルックと同じグラフィック専攻
のエイデン・ダグズ。彼女はお堅い美術からの転向組で、音楽をあきらめて今
の道を選んだブルックに、シンパシーを感じたのか、いつの間にかよく話すよ
うになったそうよ。ブルックも、女友達の中では一番親しいって言っているわ。
 さっきも言ったように、三人は同じマンションに入っていた。上の階から述
べるわね。ジョエルは最上階に当たる六階の角部屋で、部屋番号は六一〇。ブ
ルックは一つ下の五〇五。エイデンはさらに一つ下の四〇一」
「確認ですが、その学生マンションは男女の区別はないのかな? 旨は同じだ
としても、フロア毎に分けるとか」
「あ、学生マンションと言ったのは便宜上で、元々、普通のマンションなの。
近くに駅があって、いくつかの学校への通学が便利なので、入居者は結果的に
学生ばかりに。出入り口は入居者でないと通れないし、駐車場完備だしね。高
い防音性を備えているのも、芸術系の学校に通う学生にとっては、高ポイント
らしいわ」
「経済的に裕福な家庭の子が集まっていそうだなあ」
「うん、まあ、確かに。でも、そのことと今度の話は無関係だと思う。それで
……ことが起きたのは、夏休みに入って間もない八月三日。私がブルックから
聞いた通りに話すと、こんな感じになるかしら――」

           *           *

 ベッドに横たわったブルックは、しばらくの間、右腕を額に載せた格好で目
を閉じていた。最前、目撃したことが脳裏のスクリーンから剥がれない。身体
は落ち着こうと努力しているのに、心は恐慌が収まらない。結局、その体勢で
いられたのは、十分余りだった。
 身体を起こし、ベッドから降りると電話を見つめ、しばし迷った。通報は済
んだのだろうか。もしまだなら、自分がしておくべきではないのか。エイデン
はまだ戻らない。救急や警察が到着した気配はないから、事情を聞かれている
訳ではない。まさか、ジョエルに息があり、救命を試みているのか。だとした
ら、自分に手伝えることはあるだろうか。
 あれこれと想像を巡らす内に、居ても立ってもいられなくなる。気の弱い自
分に、できることはないかもしれない。けれど、声を掛けるぐらいなら。第一、
想像という行為は無限に広がって、悪い方にも向かう。それを払拭したかった。
 ブルックは意を決し、自室を出た。暖色系の内装を施された廊下を、壁に手
を突きながら進む。一階まで階段で歩く気力はないので、エレベーターの昇降
口を目指した。
 ボタンに手を伸ばし、触れようとした刹那、扉が開いた。下ってきた箱が、
ちょうどこの階で降りる人を乗せていたようだ。
「――ブルック?」
 名を呼ばれ、伏し目がちにしていた面を起こすと、エイデンがいた。
「もう平気なの?」
 彼女はドアの開ボタンを押し、話を続ける。
 ブルックは「うん」と頷くと、状況を尋ねた。
「それが……おかしなこと言うようだけど、ジョエルの姿が見当たらない」
「え?」
「一階に降りたんだけど、いなかった。誰かに救助された風でもなかったし、
まさかとは思うけれど、自力で歩いてどこかに行ったのかなって……でも辺り
にはいないようだったから、あいつの部屋の様子を見てこようと考えた訳」
「あんな落ち方をして歩けたとしたら……奇跡としか」
「だから、その奇跡が起きたか、いや、起きていないことを確かめるために、
まず六一〇号室に行く。着いてくる?」
「もちろん、一緒に行く」
 普段なら階段を使うところだが、今はこのままエレベーターで向かう。
「ねえ、エイデン。万が一、ジョエルが歩けたとしても、六階まで階段では無
理だと思う」
「エレベーターを使ったと?」
「ええ。けど、血の痕跡は全くない」
 視線を床に向けるブルック。エイデンも同じようにしてから、少し考えたあ
と、意見を述べた。
「地面にも血の痕はなかった。骨折だけで、血は流していない可能性がある」
「そ、そっか」
 会話の途中で六階に着いていた。急いで降り、六一〇号室へ。閉じられたド
アの前に立ち、今度もエイデンがノブに手をやった。
「ジョエル……いる?」
 呼び掛けと同時に、がちゃがちゃという音が広がった。ノブが回らないのだ。
エイデンは扉をどんどん叩いた。その間に、ブルックもノブを回そうとしてみ
たが、びくともしない。
「だめだわ。鍵が掛かってるって、中にジョエルが?」
 ブルックは叫ぶように言い、エイデンを見た。相手の顔色が、すっと白くな
ったような気がした。
「ジョエル、いるの? いるなら開けて!」
 聴力のよくないブルックですら耳を押さえたくなるほどの大声で、エイデン
は呼び掛け続けた。防音設備のことが頭にあったに違いない。しかし、それで
も返事や反応はない。呻き声すら上げられないのか。
「念のために聞くけど、鍵、持ってないわよね」
 エイデンの問いにブルックは首を横に振った。ジョエルは幾度かブルックに
モーションを掛けたことがあったので、合い鍵を渡されている可能性を考えた
のだろう。
「よし、それじゃあ……」
 言ったきり、次がなかなか出てこないエイデン。
「管理人だか管理会社がスペアキーを持っているはずだけど、それって本人以
外でも借りられると思う?」
「分からない。事情を伝えれば、何とかなりそうな気がするけれど……」
 このマンションは、管理人が常駐するスタイルを採っていない。電話をして
事情を説明するとなると、なかなか難航が予想された。それでも掛けないわけ
にはいかない。
「番号知ってる?」
 エイデンは知らなかったので、ブルックが掛けることになった。事情説明の
言葉がまだまとまっていないが、とにかく携帯電話のアドレスから管理人の番
号を選んだ。
「――出ないわ」
 呼び出しの回数が二桁になったところで、電話を切った。
「おかしいな。普通、出るでしょ。何のための管理人なんだか」
「どうしよう……あ、念のため、ジョエルの携帯電話に掛けてみたら」
「そうね」
 エイデンが自身の携帯電話で、ジョエルに掛ける。呼び出し音がドアの向こ
うから聞こえるようなことはもちろんなく、回線がつながる気配もなかった。
「しょうがない。やっぱり、管理人に電話するしか」
 エイデンが呟き調で意を示したそのとき、外からの雑音が大きくなった。普
段から聞こえる生活音の類ではない、何やら騒がしいざわめき。外で何か起き
たのは確かだ。
 ブルックとエイデンは顔を見合わせると、エレベーターに走った。一階に向
かう。幸い、途中で止められることなしに、箱は一階に着いた。
 エレベーターホールを抜け、管理人不在の受付窓口の前を通り、外へ出る。
騒ぎの源を定めようと、耳を澄ます。
「こっちだ」
 エイデンが言った。彼女のあとに着いていくブルック。そちらの方角は、六
一〇号室のベランダが面した側の真下だった。学生や近所の人達だろう、数名
の人だかりができている。
 ひょっとして、やっぱりジョエルは転落していたのでは。もしくは、一度は
奇跡的に立ち上がり、部屋に戻ったものの、再び転落したのか。
 嫌な予感、奇妙な想像に襲われつつ、ブルックはエイデンの腕にしがみつく
ようにして、前に進んだ。人だかりに加わり、そこにある“もの”を確かめる。
「――えっ。これって」
 ブルックは絶句した。すぐさまエイデンを見たが、彼女も呆然とするだけで
あった。
 マンション脇の地面には、人が倒れていた。ただしそれはジョエル・キーガ
ンではなく、男性ですらなかった。
「アイリーンが、どうして……」
 五一〇号室の住人、アイリーン・サンテルはもう動かなくなっていた。

           *           *

「主要な人物が、一人増えましたね」
「言い忘れていた訳じゃないのよ。アイリーン・サンテルの名を前もって出し
ておくと、先入観を与えるかもしれないと思って」
 僕は別に非難するつもりで言ったんじゃなかったが、ミドリは真摯に答えて
くれた。
「先入観というからには、もしかすると、あなたも何らかの仮説を立てている
んではないですか、ミドリ?」
「当たりよ。ブルックに、この不可解な事件を解き明かしてと頼まれたの。彼
女ったら、私を本当のマジシャン、つまり魔法使いだと信じている節があって、
それはもう大変なんだから。正解らしきものが見付かっても、おいそれと口に
することはできない。殺人事件なんだから、なおさら」
「殺人事件? アイリーンは殺されたと確定しているのですか」
「ううん。はっきり他殺と分かっているのは、もう一人の方。ジョエル・キー
ガンが殺されていたのよ」
「え。飛び降り自殺ではなく?」
「彼自身の部屋で、モデルガンを改造した特殊な銃で撃たれていたらしいわ」
「特殊な銃っていうのは、どんな代物なのかな」
「私も実物は見ていない。写真で見ただけ。元は撮影の小道具だったモデルガ
ンで、古びて使い物にならなくなったのを、ジョエルが安値で買った。彼は独
自に手を加え、ニードルガンに仕立てたそうよ」
「日曜大工なんかで、板に釘を打つあれ?」
 僕の質問に、ミドリは軽く頷き、話を続ける。
「ちょっとした飛び道具と呼べるほど、強力な物を作っちゃったらしいわ。数
発撃ち込めば、人を殺せるくらいの。ジョエル自身が怖くなり、使うのをきっ
ぱり自制していた」
「そのことは、学生マンション中の噂になっていたとか言うんじゃないだろう
ね」
「残念ながら、その通りよ。誰もが知っていたみたい」
「しかし、作った本人が危険を認識していたのなら、厳重に保管するものでは」
「さあ、その辺りは不明だけど、実際、三発撃たれているのだから、部屋に置
いておけば問題ないと考えていたんじゃないかしら」
「凶器は発見されているのかな」
「五一〇号室で見付かってる。散乱した紙やメモの下からね。指紋の類は、拭
き取られていたそうだけれど」
「アイリーン・サンテルの部屋ですか……」
「ただし、ドアも窓も開閉自由な状態だったから、アイリーンが使ったとは言
い切れない。でも、より決定的な状況証拠がある……というのが警察の見解」
「その状況証拠とは?」
「ジョエルが亡くなった六一〇号室がね、半密室状態だったの。ドアは内側か
ら施錠されてた上に、チェーンまで掛けられていた。ちなみにドアの鍵は室内
にあった。けれど、窓は開け放たれていた」
「つまり」
 一旦言葉を区切って、考えをまとめた。
「アイリーンがジョエルを殺害後、ドアの鍵を掛け、高さを物ともせず窓から
脱出したが、結局失敗して転落したと、警察は見ているんだね」
「大筋ではそうみたい。細かい点で、辻褄の合わないことがあるから」
「それはたとえば、凶器がアイリーンの部屋で見付かったこと?」
「ええ。解釈できなくはないけれど」
 その通り。アイリーンが六一〇号室のベランダの柵に丈夫なロープ状の物を
通して命綱とし、真下の五一〇号室へと脱出したとすれば、凶器を五一〇号室
に置ける。ただ、そのあと転落する可能性は低い。
「ベランダからロープでぶら下がっている時点で、先に凶器を室内に放ったの
かもしれないわね。凶器を持っていると、降りるのに邪魔で。そして凶器を放
り投げた反動で、誤って墜落したのかも」
「うーん、どうだろう。想像したようにアイリーンがジョエルを殺したのなら、
凶器を持ち去る理由が分からない。被害者自身の持ち物なんだから、発見され
ても捜査陣は犯人に辿り着けない」
「そうよね。加えて、ジョエルの動きがはっきりしないし」
 思案顔になるミドリ。ステージでマジックを演じるときに見せる芝居がかっ
た表情ではなく、本気で悩んでいるのがよく伝わってきた。
「ジョエルは本当に飛び降りたのか。飛び降りたのだとしたら、その段階で命
は助かったのか。助かったとしても、何故病院に行かず、自室に戻ることを選
んだのか」
 思い付くまま、時系列順に疑問を並べてみた。
「ああ、付け加える情報があるわ。ジョエルは右足首を捻挫していた。歩くの
に足を引きずらねばならないくらいに」
「それじゃますます、自室に戻るという行動は解せないな。その捻挫は、事件
当日に負ったものかどうか判明してる?」
「当日の午前中、平気で歩いている姿を何人も目撃してる」
「ということは、やはり彼は飛び降りており、その際に右の足首に怪我を負っ
たと……」
 呟いてみたものの、信じられないでいた。いくらアクション俳優志望で、運
動神経がよかったとしても、マンション六階の高さから地面目がけて飛び降り、
捻挫一つで済むとは考えがたい。
「ジョエルの行動に関して、警察は何かコメントしているんだろうか? 公式
非公式を問わず」
「私は聞いていないわ。ブルックも多分、同じ。特に見解は持ってないんじゃ
ないかしら」
「殺人犯はアイリーンで、犯行後に事故死したという仮説を真相として押し切
るつもりなのかな。もしかすると、ブルックやエイデンに証言の撤回を要請す
るかもしれない」
「もしそうなったら、私は私の仮説を伝えるつもり。証拠はなくてもね」
「話を聞いていると、あなたの頼み事というのは、その仮説の証拠探し?」
「証拠が見付かれば言うことないけれども、無理なら、仮説の検証をお願い。
お墨付きがあれば、自信を持って話せる」
「……話しぶりを聞いていると、自信を持てない理由は、証拠がないことだけ
じゃないようですが」
「そう……かもしれない。私が疑っているのは、ブルックの友人なのだから」
「どのような推理を組み立てたのか、拝聴しましょう」
「きっかけは、ブルックの話で一箇所、引っ掛かりを覚えたところがあったこ
と。恐らく、あなたも気付いていると思う」
「もしかして……エレベーターが下りだったこと?」
 答えると、相手は我が意を得たりという風に、微笑とともに頷いた。
「よかった。合っている可能性が高まった気がする。ショックを受けて自室で
横になっていたブルックが、再び起き出してエレベーターの前に来ると、タイ
ミングよく箱が降りてきた。乗っていたのは、エイデンだけ。一階に様子を見
に行った彼女はその帰途、ブルックのいる階を飛ばして、五階か六階に足を運
んだことになるわ」
「まさか、ボタンを押し間違えたとは考えにくいので、五階か六階のどちらか、
あるいは両方に行ったのは確実でしょう。と、先に進む前に、伺いたいことが。
エレベーター内を映す防犯カメラは、設置されていないのですか」
「私も気になったから、詳しく聞いたわ。あるにはあったけれど、少し以前に
故障したきりになってた。夏期休暇に入る前々日というから、七月三十日ね。
作動中を示す赤ランプが点灯していないんじゃないかって声が上がって、翌日
に管理人が見てみたもののどうにもならず、夏休み中の修理交換を予定してい
たと聞いたわ」
「なるほど。エレベーターの稼働状況は不明と。尤も、カメラの故障がなくと
も、階段を使えば、行き来は自由のようですが。――話の腰を折ってしまいま
した。続けてください」
「ええっと、エイデンを殺人犯と仮定すると、色んな選択肢が考えられるわ。
たとえば、ベランダから飛び降りたジョエルをエイデンは六一〇号室まで運ん
だ後に殺害した、とか」
 あり得ない仮説と分かって言っているのだろう。ミドリは肩をすくめるポー
ズをした。

――続く




元文書 #271 魔法使いはみどり色 2.Bottom   寺嶋公香
 続き #469 一瞬の証拠 2  寺嶋公香
一覧を表示する 一括で表示する

前のメッセージ 次のメッセージ 
「●長編」一覧 永山の作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE