AWC 故郷の思い出(1)     / 竹木貝石


        
#399/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  12/02/10  06:24  (262)
故郷の思い出(1)     / 竹木貝石
★内容

     まえがき

 先日、郷里に近いお寺で姉の一周忌の法事が行われ、私は妻と二人で出席
して、その帰りに、一番下の兄(二つ年上)に案内を頼んで、懐かしい生まれ
故郷を訪ね、午後2時から4時頃まで、思い出をたどりながら歩き回った。
 その模様を書き留める前に、以前に書いた自分史の中から、関連部分を抜粋
&掲載する。
 なお、数字の誤り・文字違いや変換ミス・書式の不具合等については、
御判読いただきたい。


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     自分史 『幼少年時代』より

    田舎の我が家


 私の住居は坂の途中にあり、この辺りはちょっとした崖のような地形に
なっていた。
 坂道を南へ上っていくとN子ちゃんの家があり、北の方へ下っていくと小川
がある。家の西は二、三メーターの高台になっていて〈上のおばさん〉の家が
あり、東側は逆に一、二メーター低く、道路を隔ててさらに二メーター
下がった所にS子ちゃんの家があった。
 要するに、私の家は、崖の途中の僅かな平地に、母屋と離れと井戸端(風呂
場を含む小屋)が三角形に向かい合って建ち、それらの周囲にはやや広い畑が
あった。

 母屋といっても、以前に父が瓦屋(瓦製造工場)を経営していた頃の、『職
場』と呼ぶ広い土間の一角に、藁やござを敷き、障子紙を張り巡らした粗末な
居室で、土壁の外側には板や杉皮を張り、屋根は瓦葺きだったが雨漏りがひど
かったし、天井板が張ってなくて、屋根裏の土がよく頭の上に落ちて来た。
 中は広くて、おそらく四〇坪はあり、土間の片隅には、瓦屋をしていた頃の
機械類や農器具が置いてあった。
 太い大黒柱が三本あって、悪戯をしたり我侭を言ったりすると、「縄で柱に
縛りつけるぞ」と脅しを掛けられたものだ。
 一部中二階風で、丸梯子を六段上ったその屋根裏部屋に、兄たちが寝起き
していた。
 土間の東南はお勝手場になっていて、くど(かまど)が二つと、薪や藁束が
置いてあり、大きな炭箱や七厘(焜炉)や火消壷など、今日ではあまり見かけ
ない火器類が並べてあった。
 あらじ台(乾燥前の瓦を載せる台)を調理台代わりに使い、当時水道は
ないし、井戸端が遠いので、手桶に飲料水が常時汲んで置いてあった。

 家の南側に、兎小屋・山羊小屋・鶏小屋が作り付けてあり、兄がそれら動物
たちの世話をしていたし、庭の隅には大きな水瓶が三つもあって、川で捕まえ
てきた水すましや亀やたくさんの魚を飼っていた。

 わりあい趣を感じさせたのは、東側の崖っぷちに沿って植えられた樹木で、
楠・杉の木・桜の木、その他、いちじく・ぐみ・ぶどう・びわ・柿・桃の木も
あった。
 特に、二抱えもある楠は、つい近年までそこに立っていたのを、道路拡張や
地形変更に伴う工事で、町の公園へ移し替えられたが、兄の話によれば、
残念ながら今は枯れ木になってしまったそうだ。

 離れといっても古びた木造の建物で、二度の大地震で、壁は落ち、軒は傾い
て、雨漏りがひどかった。
 母が病気を養生しながら寝たり起きたりしている部屋と、御飯場(台所)・
瓦小屋・白じ小屋が横につながっていて、小屋は物置に使っていた。

 畑の中には、瓦を焼くための大きな窯場が二箇所と、炭焼き窯もあって、昔
の名残りを留め、子供たちの遊び場になっていた。

 家から少し離れた山の方にも、畑と二反二畝(二二アール)の田んぼがあっ
て、父や兄が時どき農作業に出かけていた。


 後で知ったことだが、割合広かったこれら私たちの家や畑は、実は、西隣
の〈上のおばさん〉から父が借りていたものらしく、もしかしたら、瓦屋の
経営不振から失敗廃業し、せっかく勤めた会社も辞めて、酒浸りになっていた
父が、借金の形代わりに譲ってしまったものかも知れない。

〈上のおばさん〉は大変優しい人で、早くにご主人を亡くし、息子さんと二人
暮らしだったが、何年か後、その息子さんが嫁をもらい、鉄鋼所を開いた。
 私の父が亡くなってまもなく、跡取りの兄は、家屋敷を全て鉄鋼所の息子
さんに返し、愛知県安城市に家を建てて引っ越ししていったから、今は我が家
の跡形すらもない。
 二反二畝の田んぼだけは正真正銘父の持物だったが、何十年も経った今日、
ボウリング場、さらにはホームセンターに変わったそうだ。
 田んぼの跡地にショッピングセンターができ、家の近くを片側三車線の広い
国道が突っ切るなどとは、あの辺鄙な田舎から、誰が想像できた
だろうか?

 それはともあれ、しばしの間、私は子供の昔を偲び、素朴な田舎に戻って
みたい。



    子供の世界


 私の家の横を南北の道路が通じていて、五〇メーターほど坂を上っていく
と、瓦屋のN子ちゃんの家がある。
 小さい頃よく家の中で遊ばせてもらったが、当時における中流農家の標準的
な家の造りだったのか、六つの和室と縁側と通り庭があり、奥座敷へは廊下を
複雑に曲りくねって行かねばならなかった。
 玄関の部屋の大きな火鉢には鉄瓶がかかっていて、いつもお爺さんがキセル
で煙草を吸いながら、「ぼうず。」「ぼうず。」と私を呼んで話しかけて
くれた。
 瓦製造の職場は、道路を隔てた広い敷地内にあって、一日中、土練機の
モーターがガランガランと鳴り響き、職人さんが何人か働いていた。
 確か一日か二日おきに、窯焚きの日と窯開けの日があり、窯焚きの日には、
瓦を焼くために窯を閉じて石炭をゴーゴー燃やし、窯開けの日には、焼けた瓦
を取り出してその余熱で、さつま芋を焼いてもらったりした。
 屋外の広い庭を〈おもて〉といい、瓦を干してない時は、子供たちの絶好の
遊び場になっていた。

 私は二つ年上の兄に付いて瓦屋さんの表庭へ行き、七、八人の子供に混じっ
てよく遊んだものだ。
 チャンバラ・馬跳び・相撲・かくれんぼなど、近所の子供たちは私の
ハンディキャップをちゃんと心得ていて、対等に遊べるよう計らってくれ、
それがごく自然であった。
 野球とカッチンダマ(ビー玉)とショウヤ(メンコ)は、視力がないと
うまく遊べなかったが、その他は何でも仲間に入れてもらい、彼らは私に
対し、適度の敬意といたわりをもって接してくれた。
 マーちゃ・ヤッちゃ・タカ君・マッさん・マコちゃ・ミッちゃ・
ヨーちゃん・バイロ・ヤー君・ターちゃ・デンちゃん…、年上も年下も皆素朴
で優しかった。


 健常者と障害者が交わる場合、珍しさや遠慮や恥らいがあるうちは本当の友
とは言えない。

 交流を重ねるうち、自然にうちとけて異和感がなくなり、障害者に何ができ
て何ができないかを、即座に判断できるようになれば本物である。
 そういう人間関係が成立するまでに、さほどの日数を必要とせず、同じ活動
や職場での付き合いなら一か月、寝起きを共にするなら一週間もあれば充分で
あろう。
 それが子供同士だともっと順応は早い。


 子供の頃、私の一番の遊び友だちは同い年のTMだった。
 彼は私を目の不自由な子供として特別扱いせず、私も全然遠慮しなかった。
 遊びの主導権は、いつも私にあり、相撲を取っても駈けっこをしても将棋を
指しても、私の方が強かったが、彼は危ない時ちゃんと庇い、安全に誘導して
くれた。
 川に入ったり田んぼや畦道を駆け回ったり物置や炭焼き窯に潜り込んだり
して遊び、悪戯が過ぎて叱られることもよくあった。

 [中略]



    小川


 坂道を四、五〇メーター下った所に小川があり、私たちは『下の川』と
呼んでいた。小さな木の橋が架かっていて、その橋を渡ると、少し上り坂に
なり、『中根山』という小高い林がある。夏から秋には熊蝉やつくつく法師が
賑やかに鳴き、それは私の家の窓からも聞こえてきたし、兜虫やカネブンブン
(黄金虫)を捕りにも行った。
 橋を渡ってすぐ左へ川沿いを行くと竹薮があり、ここはちょうど私の家の
裏手に当たり、夕暮れには何千羽もの雀が騒騒しく鳴き交わしつつ寝ぐらへ
急ぐ。
竹薮を過ぎてしばらく進むと恩田川に合流し、その橋を渡り、また左に折れて
下っていくと、やがて逢妻川に達する。

 恩田川や逢妻川までは、兄と一緒でないと出かけないが、『下の川』へは
小さい子供たちだけでしょっちゅう遊びに行った。
 ちょうど橋の所から下の川へ下りる辺りは、私の家の田んぼと隣り合って
いて、水路が通じ、めだかやツボ(田螺)やニイナツボ(川にな)をよく
捕った。
 粉ミルクや缶詰の空き缶に水を八分目ほど入れ、田螺やニイナツボを沈めて
持ち帰り、庭の片隅に置いておくと、翌朝には必ず、缶の内側の壁を這い上っ
て水面スレスレまで来て吸着しているが、あれは苦しいからか、逃げ出したい
からか、それとも砂を吐き出すためか、空気を呼吸したいためか、あるいは単
なる習性なのか、よくわからない。

 ニイナツボというのは、円錐形 二、三センチの巻貝で、たぶんあれが〈川
にな〉であろう。
 私は母に聞いて、ニイナツボが食用になるというので、蜆や田螺と一緒に鍋
で煮てもらい、縫い針で中身を取り出しては食べたものだが、ほろ苦くてさ
ほどおいしくなく、私以外に誰も食べなかった。
 川になは、衛生学的には肺吸虫(肺臓ジストマ)の中間宿主で、この幼虫は
蟹類を経由して人に寄生すると言われる。知らぬこととはいえ危ない話
だった。
  川になはまた、螢の幼虫の常食になるそうで、最近は農薬や水質汚染に
よって川になが繁殖せず、螢もいなくなったのだという。


 幼い頃の夏の夜は、兄や姉やS子ちゃんたちと、川土手を螢狩りに歩いた
ものだ。
「ほ ほ、ほたる来い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ。
ほ ほ、ほたる来い。」
 当時の私は全盲者としてはまだしも視力が良い方で、小学生の頃には、月の
光がよく見えて、その輪郭まではわからなかったが、月の方角を指差すことは
できた。
 螢を捕まえるのは無理だったが、兄たちがガラス瓶に入れてくれる螢の瞬き
を目で見ることができ、瓶に目を近づけると、中でチカリチカリと光る螢が
よく見えた。


『下の川』は幅一メーター、深さは一〇センチからせいぜい三〇〜四〇センチ、
水は透き通って流れは緩く、近所のおばさんたちは洗濯をし、子供たちは水
遊びをしたり、竹箕やたもで魚をすくったりした。
 その頃、ざりがにはほとんどいなくて、鮒・はぜ・もろこ・どじょう・えび
・メソ(細い鰻)などを捕まえては、空き缶に入れて持ち帰ったものだ。

 橋の下は少し深みになっていて、石や瓦がゴロゴロし、水垢で滑りそうに
なる。
 私は逢妻川で拾った蜆の中から、ごく小さいのを一握り、この橋の下に放し
ておいた。この川は水がきれいすぎて、もともと蜆は一匹もいなかったが、
翌年、橋の下を探してみたら、両掌一杯も捕れて、一食分の味噌汁になった。
私の放流しておいた蜆が繁殖していたのである。

 三番目の兄も魚を捕るのが好きで、大雨の降った朝、下の川と田んぼを
つなぐ水路に梁を仕掛けて 二、三〇匹もどじょうを捕獲した。
 鍋にそのどじょうを入れて七厘にかけたら、どじょうが暴れて、鍋の木の蓋
をはね飛ばしそうな勢いだったので、鍋の蓋を押さえていた記憶がある。
 その兄がある時、おたまじゃくしの卵を拾ってきてくれて、そのヌラヌラ
した卵を水瓶に入れておいたら、春になって無数のおたまじゃくしが
生まれた。


 秋も深まった一〇月の終りに、明日から盲学校の寄宿舎へ戻らなければなら
ない私は、一番下の兄と二人で、魚を捕りながら、下の川をドンドン遡って
いったのを思い出す。名古屋へ行ってしまえば、兄ともしばしのお別れで
ある。
〈山羊のおばさん〉の家へ行く途中の、四つん這いになって渡る丸木橋の下
まで来た時には、体がすっかり冷えきって震え上がっていたが、それでも
なんだか名残り惜しくて、二人はなお川上の方へ上っていったものだ。


 逢妻川や恩田川で遊んだ思い出は、また別に書く機会があると思う。
 数年前、久し振りに故郷へ帰り、『下の川』の小さな橋の上に立って、昔
懐かしい流れの音を聞いたが、今やヘドロと廃液のどぶ川と化してしまった。
土手の草も枯れがれで、橋もコンクリートに変わり、思いなしか水音までが
ドロンと濁って聞こえてきた。



    喧嘩と差別言葉


 田舎の家では母が離れで寝たり起きたりしている他、昼は家族が皆、会社や
学校へ出かけて行き、私は近所の子供たちと遊んで暮らした。
 『大人にとって、一日は長く一年は短いが、子供にとって、一年は長く一日
は短い』とはよくいったものだ。

 戦争が激しくなると、町の小学校(国民学校)も、各村に分散して授業を
行ない、一、二名の先生が出張して来て、神社の境内などに莚を敷いて勉強
するようになった。
 名古屋から親類を頼って疎開して来る家族もいて、村も幾分変化を見せた
が、田舎はすこぶる平和であった。

 が、ここでは子供同士の喧嘩について述べる。

 瓦屋のテッちゃんという子は私より三つ年上で、兄と一緒によく遊んで
くれたが、一度だけ、何かの理由で喧嘩になった。
 とっくみあったものの、いつになく相手が強くて歯が立たない。日頃は手心
を加えてくれていたのであるが、この日は普段の優しさが全く感じられず、
人が変わったようであった。
 腸の煮え返る思いで家に戻った私は、錆びたブリキの破片を持ち出して、
「これでテッちゃんの手を切ってやるんだ。」
 と息まいた。
 近所のおばさんになだめられ、少し怒りが収まったところで、先ほど喧嘩
した場所へ行ってみたが、もうそこには誰もいなくなっていた。







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