AWC 故郷の思い出(8)


前の版     
#398/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  12/02/09  01:03  (157)
故郷の思い出(8)
★内容                                         12/02/09 08:05 修正 第2版

      ふるさと散策(その2)


 国道から南側の区域は、北側に比べてあまり道筋や地形が変わっておらず、
自動車屋の〈ヤアくん〉・石鹸屋の〈ユーさん〉・そして〈カネちゃ〉・
〈クワさ〉・〈ナーさ〉・〈サターさ〉・〈マモちゃ〉・〈マコちゃ〉…。
これらの家々は、もし代替わりしていたとしても、建物は以前と同じ場所に
立っているようだ。

 国道の数十メートル南に広い道路があり、かつてはこれが村の本通りで
あったが、今は道幅こそ広くなったものの、行き止まりになっていてここより
西へは行けない。ガードレールの向こうに二筋の小川と逢妻川が見えるが、昔
懐かしい橋は無くなっており、主要道路が国道155号に替わったのである。

 ガードレールにぶつかる手前、すなわち川の東側に、〈ヨシローさ〉の家が
あり、門の上のお地蔵さんを、子供の頃によく観察させてもらった。今そのお
地蔵さんは、家の脇に祠を建てて奉ってある。
 兄達と逢妻川で泳いでいて喉が乾いたとき、しばしばこの家のポンプ井戸
から水を飲ませてもらってありがたかった。
〈ヨシローさ〉の息子は〈ゴロちゃ〉といい、私と同年だが、相撲がすこぶる
強く、一度だけ対戦したことがあるが、私など全然太刀打ち出来ず、すばやく
右四つに組停められ、下手投げであっけなく負かされた。けれども、彼は私を
投げ飛ばすことをせず、両腕でしっかり支えてくれていたから、私は半回転
したまま上半身を中釣りにされた格好で、大層恥ずかしい思いをした。


 父の飲み友達の〈カクさ〉・三番目の兄の友達で〈タンちゃ〉・新聞配りの
〈カッちゃ〉・その弟で卓球の上手な〈タアちゃ〉・二番目の兄と同級生で笛
の名人〈タケやん〉……。

 今回私を案内してくれたのは四番目の兄だが、友達の〈トンやん〉の家を
訪ねたら、奥さんが出てきて、
「3年前に亡くなりました」
 と言い、弟さんも病死されたとのこと。
 石鹸屋の〈ユーさん〉も兄の同級生で、小高原小学校の教員だったが、
バイクで国道を家のすぐ近くまで戻って来た所で、車に巻き込まれて亡く
なったという。


 神明神社は村の南の方にあり、当時の雰囲気や情緒を十分に残している。春
は花見・夏は盆踊り・秋はお祭りで賑わい、正月には初詣の後に、熱い熱い
甘酒が出た。

 石の角柱を立て並べてつないだ塀は、神社によく見られる囲いだが、寄付者
の名前の中で〈竹木〉と彫ってあるのが何番目の柱だったのか? 10年ほど
前に訪れたときには、その石柱を探し当てることが出来て、昨年亡くなった
姉が、わざわざ拓本を取りに来たのだった。

 正面の大きな角柱(石碑)には
「神明社   大正13年」
 と彫り込んであり、兄が目を凝らして読み上げた寄贈者の名前は、どうやら
「磯村時次郎(トクさ)  神谷圭次郎(テッちゃんの祖父)」
 と判読出来た。また、別の石碑には、
「土地 228坪   中手町五丁目九四番地」
 そして、「磯村佐太郎」を含む数人の名前がある。

 ガラス越しに、金銭奉納者の名前が掲示してあり、〈テッちゃん〉・
〈ミッちゃ〉・〈マコちゃ〉の弟など、私達が知っている氏名も何人か
あった。

 広い木の板に、神明社の由来や歴史が説明してあり、
「言い伝えに寄れば、第百五代 後奈良天皇 竜 天文元年(1532年)
磯村与左衛門が創建したと言われる……」
 以前は、境内がもう少し広かったように感じるが、ここには「三五七坪」と
書いてあり、貝塚も在るらしい。

 石段を上がると、正面にガラスの格子戸が閉まっており、向かって右横の
賽銭箱に百円を入れて、二拝・二拍手・一拝した。

 神木は銀杏の木で、樹高22.40メートル・幹周り381センチ。コンク
リートで囲ってあり、人間の胴回りくらいの太い横枝が何本も伸びている
ので、それらを支えるために、直径20センチの鉄柱が4本立ててある。
 他にも古木が多数あり、ムクの木(?)は、樹高18.5・幹周り225。
「俺が子供の頃には、この木に上って、ターザンじゃあないが、ずうっと枝を
伝って行ったことがあるよ」
 と兄が言い、それは私も覚えている。
 榎木は、樹高14メートル・幹周り134センチ。
 もう一本の榎木は、14メートル・182センチ。
 別の銀杏は、コケがいっぱい生えていて、15メートル・168センチ。

 土俵があり、お祭りには今でも相撲大会を行うのだろう。40〜50センチ
ほど高くなっていて、柱も屋根も俵もなく、砂は湿って固いから、本番には整
備が必要だ。

 懐かしの狛犬を触ってみて、台座も犬自身も、昔より小さく感じたが、
「昭和一二年一二月 奉献」
 と書いてあるから、子供の時と同じ物だ。向かって右が「あ」、左が「ん」
である。

 鳥居の柱には、
「氏子一同   平成一一年八月」
 と彫ってあるから、まだ新しい。

 手洗い(手水鉢)はもっと新しくて、平成一三年に氏子が寄付している。
美しい長方形で、大きさが1×2メートルくらいだったろうか?
 金属製の龍が取り付けてあり、口から水が出る筈だ。兄が細かく説明して
くれて、頭、髭・上顎・下顎・歯・額・眼・胴・背・コケ(鱗)・足および
三本の指…。特に、弯曲の具合(カーブの線)が滑らかに作られていた。


 帰り道に、〈フミやん〉や〈ヤッちゃ〉の家の前を通ったが、このたびは
呼び出すことはしなかった。
 それにしても、家がたくさん増えている。

 少し歩いて、昔の池まで来た。私は、池を埋め立ててその跡に公民館を建て
たものと思っていたが、そうではなく、池の場所には別の家が立っていて、そ
の北隣に公民館があるらしい。
 裏口には、木の枠に『中手町公民館』と書いてあり、表の看板にも、『中手
町公民館  親和会 憩いの場』と書かれ、入り口は綺麗なアルミサッシの扉
が閉まっている。
 私が18歳の秋、父の葬儀をここで行なった。


 駐車場と道を隔てて、中手山村で唯一の商店だった〈トクさ〉の家がある。
今は店をやっていないが、戦時中の配給米
や煙草や菓子類をはじめ、戦後も、ビールやラムネなどの飲み物・かき氷・化
粧品から雑貨類に至るまで、何でもここで売っていた。
 入り口脇に、木の四角い郵便ポストがあり、盲学校が長期休暇のとき、私は
よく手紙を投函に来たものだ。
 この〈トクさ〉の前(北側)の道が、かつての大通りだったが、先ほど述べ
たように、〈ヨシローさ〉の所までで行き止まりになってからは、車もあまり
通らない。
 〈トクさ〉からわが家までは、北へ約百メートル、こちらもまっすぐの道路
が通っていたが、現在は道が弯曲している上に、途中の国道を渡るのに信号が
ないから、見通しが悪く、直線では行けなくなっている。

 回り道をして国道を渡り、〈ケイジロさ〉の家を訪ねることにした。石垣や
灯篭を配した豪邸で、兄より一つ年上の〈テッちゃん〉や、私と同年の
〈ナオちゃん〉(N子ちゃん)の家である。
 玄関のチャイムを圧し、奥さんに、
「テッちゃんは?」
 と尋ねたら、すぐに奥へ引っ込んで、入れ替わりに〈テッちゃん〉本人が
現れた。
「オオ、これはこれは ようこそ! どうぞ、上がって一服したら」
 と歓迎してくれたが、
「中手山を久しぶりに歩いてきて、昔よく遊んでもらったので、ちょっと声を
聴きたくなっただけ」
 と礼を言い、握手をして別れた。


〈テッちゃん〉の家から、わが家の横を通って、カーマの駐車場までは百
メートルもなさそうだ。
 仲良しだった〈マサちゃ〉(TM君)や〈サーちゃん〉(S子ちゃん)の
家は跡形もないが、何処へ引っ越ししたのだろうか?

 10年ほど前にも、兄に案内してもらって故郷の中手山を訪ねたことが
あったが、今回はその時よりもゆっくり歩いて、様々な思い出をたどることが
出来て楽しかった。


     [平成24年(2012年)2月3日    竹木 貝石]


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−







前のメッセージ 次のメッセージ 
「●長編」一覧 オークフリーの作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE