AWC 故郷の思い出(6)


        
#396/598 ●長編
★タイトル (GSC     )  12/02/09  00:21  (180)
故郷の思い出(6)
★内容

    兄【3】


 私の生まれ故郷は愛知県刈谷市中手町である。当時は碧海群刈谷町中手山村
と言って、戸数が100軒なかったかも知れない。
 村のお祭りは旧盆の次の日と決まっていて、私はその日が来るのを楽しみに
していた。父と二人きりの退屈な夏休みがソロソロ終りに近付くその頃、兄が
咆哮先から帰って来るからである。

 中学生最後の夏、私は兄と過ごした盆からお祭りにかけての四日間を、今も
忘れることができない。


 待ちに待った兄の靴音が聞こえて来ると、私は家の角口へ飛び出して行く。
「オウ! 石さん、元気だったか?」
 講談本の読み過ぎで、兄は私のことを大石内倉助に似せて、イシさんとか
クラさんとか呼んでいた。

 さて、二人は早速川の方へ行ってみる。
小さな橋を渡り、左に折れて川沿いに下って行くと『ドンドン川』である。
「オヤ! 立派な橋ができたなあ。」
 兄がびっくりしたように言ったが、なるほど、以前にはグラグラで所々板が
抜け落ちていて、よく踏みはずしそうになった橋が、今は板の上に盛土まで
してあってびくとも動かず、真新しい欄干には大きなぎぼしまで付いている。
 兄は私の指で、欄干に書かれている『温田川』という文字をなぞらせてくれ
た。『ドンドン』と呼んでいたその川の正式な名前は温田川と呼ぶらしい。
「兄さん、俺やっと泳げるようになったよ」
 と私が言うと、
「ホオー、そうか。一度おまえの泳ぐところを見たいもんだ」
 と言うことになり、二人は早速温田川に飛び込んだ。
 プールに比べると川の水はぬるま湯のように温かい。『ドンドン川』の滝の
音は全く聞こえず、今は満ち潮である。
 私はおそるおそるこちらの岸から向こうの岸へ泳いで渡って見せた。これ
こそ私の長年の夢であった。スタイルは悪くても、とにかく背の立たない深さ
の所を7メートルも泳いで渡れるようになったのだ。兄が感想を何も言わ
なかったのは、私の泳ぎがいかにもおぼつかなかったからである。
 私は小さい頃から川に親しんで育ったのに、なぜか泳ぎができず、それを
いつも残念に思っていた。その私が曲がりなりにも泳げるようになった
いきさつは、こうである。


 1学期の終り頃、プールへ通って練習してみようと決心した私は、授業が
済むと毎日、学校の寄宿舎から歩いて2キロの道を『シンポプール(変換
不能)』へ出掛けた。当時やっと白杖を頼りに町なかを一人で歩けるように
なったばかりのことである。
 名古屋の夏はことのほか熱いが一度プールに入ればブルブル震えるほど水は
冷たい。塩素のたっぷり入った水をしたたかに飲んだりしながら必死に練習
した。
 天気のいい日は芋を洗うような混雑で、真っ直ぐ進めないのをなんとか押し
分け、最初はプールを横切って15メートルヲ行ったり来たり、やがてコース
に沿って縦に25メートルを往復できるようになった。とはいっても私の泳ぎ
は我流中の我流で、立ち泳ぎと逆平泳ぎをミックスしたような奇妙なスタイル
だから、くたびれる割りにはさっぱり前へ進まず、10メートル行くのに1分
も2分もかかる。それでもプールの底に足を付けず、水の上に顔を出したまま
浮かんでいられるだけでも嬉しかった。
 2時間一杯練習して寒さに震えながら上がって来ても、2キロの道を歩いて
学校に帰りつく頃には汗びっしょりになってしまう。
 雨の日に長い時間泳いだ後、風邪をひいてしまったこともあった。
 ともかく、プール開きの七月一日から夏休みに入る二十日までに、13回も
通ってどうにか覚えた泳ぎであった。


 さて話を戻し、兄と二人で『ドンドン川』を泳いでいる所へ、近所の友達で
私より二つ年下のF君とN君がやって来た。その二人が勢い良く泳いで来て、
水上にかろうじて浮かんでいる私にちょっと接触しただけで、私はブクブクと
水底へ沈んでしまった。
 びっくりして私を抱え上げながら兄が、
「やっぱり、おまえの泳ぎを見ているとヒヤヒヤするよ」
 と言った。

 4人は魚捕りをしながら『本川』の方へ下って行った。
 元元私は手掴みで魚を捕るのが得意で、川底の石や割れた瓦の隙間には海老
やはぜや鮒が潜んでいるから、片手で隙間の一方の口を塞ぎ、もう片方の手で
魚を追い出して捕まえるのである。
 その日は特に沢山の収穫があり、10センチ以上の魚が何匹もいた。私たち
は捕った魚を網袋に入れては、また川底を探りながらゆっくりと川下へ下って
行った。
 突然N君が叫んだ。
「アッ、鰻だ!速く網をこっちへ…!」
 皆は懸命に鰻を捕まえようとしたが、結局逃げられてしまった。相当な大物
だったらしい。
 私は前々からN君が好きで、この日、彼らと何自間も川で一緒に遊んだこと
が、彼に対する憧れの気持ちを一層掻き立てたようだ。彼は控え目なたちで、
めったに口を開かなかったし、私も中学時代は大変な恥ずかしがりやだった
から、川を散策する間もN君とは一言の話もせず、ただ彼を意識しているだけ
だった。

 夕方家に帰ってからも、彼の女の子のような可愛い声がずっと耳を離れず、
小声で何度も彼の名前を呼んでみた。年下の少年に寄せる恋の気持ちだったの
だろう。


 夜は兄と村の神社へ盆踊りに行った。私は踊りや遊戯が苦手で、いつもじっ
と佇んでいたものだが、目の見えない者にとって、踊りや体操のような体を動
かす演技を見苦しくなくやって見せることは不可能に近く、相当の練習と努力
を要する。見様見真似ができないから、どうしても不自然で不恰好になり、
それを気にせず踊るのはよほどの勇気がいる。
 その夜も私は半分手持ちぶさただったが、どうせ内に帰っても用字はない
し、ただ頑固者の父と一緒に寝るよりも、ずっと兄に付き合うことにした。
なにしろ兄の休暇は四日間しかないのである。
 兄は踊りの輪の中に入り、一曲終る度に私の所へ戻って来ては、踊りかたを
説明してくれたり、久しぶりに会う友達と話をしたりしていた。
 その年の盆踊りの歌は、〈名古屋囃子〉が流行していたし、他に地元の人が
作詞・作曲・レコーディングした〈刈谷音頭〉や〈中手山小唄〉など何曲かが
踊られた。中でも、題名は知らないが、男女がペアを組んで踊るフォークダン
ス風の歌が人気で、何度も何度も繰り返して踊られた、
 私はスピーカーから流れるこれら哀愁をおびた歌声を聞きながら、踊りの様
を想像し、今頃N君や兄はどの辺りにいるのだろうかと思いをはせていた。

 夜も次第に更けて行き、
「ではもう一度、中手山小歌をやります」
「次は、刈谷音頭です」
後3回踊ったら終りにしましょう」
 と言う司会者の指示に従って、みんな楽しく夏の夜の一時を踊り続けた。

 やっと終了したのは12時過ぎで、もう小さい子どもたちはとっくに夢路を
辿っている時刻だったが、中学3年生の私は少しだけ大人の仲間入りをした
ように思った。
 ところが、帰りの道すがら、数人の友達と一緒に歩いている時兄が言った
言葉は、私に取って些かショックだった。
「女の手というのは、案外冷たいものなんだなあ!」
 兄は咆哮先で苦労をし、社会の荒波にもまれているとはいえ、私より二つ年
上にすぎないのである。
 いずれにしても、盆踊りはよほど楽しかったらしく、私は内心羨ましく感じ
た。


 翌日も、その翌日も、二人は刈谷の町へ出掛けたり、懐かしいお寺や小学校
を訪ねたり、夜は盆踊りやお祭りの屋台で遊んだりした。

 そして4日間は瞬く間に過ぎ去り、その朝、兄は休暇を終えて奉公先へ帰ら
なければならなかった。
 出がけに何か面白い話題があって、それから兄は靴紐を結びながら、
では石さん、行って来るぞ。元気で頑張れや!」
 と言い、心なしか重い靴音を残して去って行った。

 私はその日1日中兄を偲び、兄と過ごした四日間を回想しつつ、幾度も
涙ぐんだ。
 庭の莚の上に座って、ずいき(サトイモの葉柄)の筋を取りながら、
「兄さん!」
 と呼んでみた。
 二人で食べたアイスキャンディーの味…。
 兄は『温田川』の欄干の文字を指でなぞらせてくれた。
 そして、溺れそうになった私を抱き上げてくれた…。
 楽しかった一つ一つの出来事が、盆踊りの哀調おびたメロディーに乗せて、
繰返し繰り返し思い出された。

  刈谷ナア
  刈谷名物万堂祭り
  ……
  逢妻川とは悩ましや
  ホホイ オホホイ
  オホホイノホイ

  貴方と私 君と僕
  いつもにっこり見交わせば
  ……。

  名古屋囃子で ヨッサヨサ
  踊れや踊れ
  祭り提灯ともる頃
  いりゃあせ 踊りゃあせ
  うれし名古屋の
  夏祭り ヨイヨイヨイ
  囃せや ヨッサヨサ
  踊れや ヨッサヨサ。


 私が慕っていたのは、N君ではなく、兄だったのである。
 けれども、今考えてみると、家に残った私よりも、奉公先へ帰って行った兄
はもっと寂しかったに違いない。


       [1992年(平静4年)2月7日     竹木貝石]


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−







前のメッセージ 次のメッセージ 
「●長編」一覧 オークフリーの作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE