●長編 #0477の修正
★タイトルと名前
親文書
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
園舎の内部は、いかにも園児達が喜びそうな飾り付けがされていた。折り紙や切り抜 きの動物が壁を飾り、天井から下がる音符のモールが揺れる。庭に面した大きなガラス 窓は、太陽の光を適度に取り入れ、教室を暖かくする。事件に関連しそうな代物は、ほ とんどなかった。唯一、これら窓の施錠状態が問われたが、刑事によると、いずれもき ちんと閉められていたらしい。玄関と勝手口も同様だった。 「これからお見せする資料に関しては、口外なしでお願いします」 あらかじめ机上に用意されていたファイル群を示しながら、早矢仕刑事が釘を差す。 捜査本部のある署に着くと、地天馬と私は小さな部屋に案内された。人目をはばかる と言っては大げさになるが、あまり目立たないようにとの注意を事前に受け、どうやら 歓迎されていないらしいと分かる。 「約束を守るのは当然だ。ただし、警察の見解とは異なる真相があった場合、あなた方 警察がそれを隠そうとするのなら、僕も約束を守れない」 「……仕方ありませんね」 早矢仕刑事は端からあきらめた風だった。地天馬のことをよく知っている。 「私一人が確約しても何の意味もないかもしれないが、真相が別のところにあるんだっ たら、過ちを改めるにやぶさかでありません」 「OK。ご厚意に感謝します」 地天馬と私は、一つ席を空けて、腰掛けた。真ん中に資料を置く。正面に早矢仕刑 事。 「全てをどうぞとお渡しできればいいんですが、上がよくない顔をして、ストップを掛 けられました。申し訳ありませんが、地天馬さんの方から要求をお出しください。応え られる物だけ、お見せします」 「死亡推定時刻を」 「分かりました」 ファイルを繰ろうとする刑事を、地天馬は手を挙げて止めた。 「覚えているのなら、口頭でかまわない。推定時刻に疑問があれば、報告書を見たいと 思う」 「そうですか。午前四時半から六時半までの二時間です。アリバイも言いましょうか」 「ほとんどの人には、アリバイがないんじゃないか?」 「はい。午前六時以降なら、はっきりしている人も何名かいますが、二時間丸まるとな ると、誰もいません」 「誰もと言うからには、最初から金尾さんを犯人と決め付けていた訳じゃないようだ ね」 多少、皮肉の響きを帯びる地天馬の声。 「ええ、まあ。金尾夏江に重要参考人として来てもらった間に、他の人にも当たってみ たという形を取りました」 「他の容疑者を列挙してもらえますか」 「容疑者というと語弊があるから、言うなれば関係者のリストになります。これはリス トをお渡しした方が早いでしょう」 早矢仕刑事は顔写真付きで手書きのメモをよこした。まさか、正規の印刷した資料は 持ち出し禁止で、特別に計らってくれたのだろうか。 地天馬はそんなことに思いを巡らせる様子は微塵もなく、リストを受け取るや、目を 通し始める。私も横合いから覗き込んだ。 トップは金尾夏江になっていた。弟とよく似た顔立ちの美人であるが、姉の方が積極 的な性格のように見えたのは、私の色眼鏡かもしれない。 次に草高均。これまでに何度か耳にした、幼稚園の事務長で、オーナーでもある。小 太りで、福耳の持ち主。ただ、額に刻まれたしわは、苦労の多さを物語っているかのよ うだ。 以降三名は、草高幼稚園の職員が続く。阪口伸吾は園長で、五十キロを切るほどの体 躯に加え、その優男の風の容貌は一見頼りないが、腕力は強い。唯一の男手でもあり、 力仕事全般は彼の受け持ちだそうだ。早矢仕刑事も実際に会って、逆三角形の見事な肉 体を目の当たりにし、驚いたという。 原田世津子は大柄の、肝っ玉母さんのイメージをそのまま具現化したような体格、笑 顔を持っているとのこと。ふくよかでよく笑う、大きな声の持ち主。 大家心は原田とは対照的に、小柄で細身の女性。体重は四十キロちょうどぐらいで、 力仕事はもちろん、激しい運動も付いていくのが辛いほどスタミナがないが、子供の受 けはよいらしい。 「幼稚園の教職員の中で、死んだ社長に言い寄られていたのは、金尾夏江だけだったん ですか」 リストの途中で、地天馬が早矢仕に聞いた。 「いえいえ。江内の奴は女の好みの幅が広かったようで、全員に、その、穏やかな表現 を使えば、アプローチしていた、と。その中で本命が、金尾だったというのが背景で す。ああ、全員拒絶していたのは言うまでもありません」 リストの続きに戻ると、幼稚園関係者は終わって、三河章太郎という五十五の男性の 名があった。玩具店経営とあるから、店主なのだろう。江内に多額の借金があって、ト ラブルになっていた一人。椎間板ヘルニアの手術を経て足腰を悪くし、杖を手放せない 身体になったのが商売に響き、返済に苦しんでいたようだ。早矢仕刑事の補足説明によ ると、最近では食事も喉に通らないほど悩んでおり、体重が五十キロを切ったという。 彼が特に名前を挙げられたのは、草高幼稚園の近所に店を構えているとの理由からであ った。 江内の妻、江内美子も挙がっていた。言い方はよくないかもしれないが、でっぷりと 太って装飾品をやたらと着けた、成金の典型のような身なりをしている。夫の会社の副 社長に収まっており、実際にも事務的な仕事をこなしてはいるらしい。時折、夫と不仲 になることもあるようだが、殺意に結び付くほどなのか不明。ただ、江内の死で美子が 遺産を手に入れられるのは間違いない。 最後にあったのは、手塚理緒奈という二十七になる元モデルにして、江内の秘書。も っとも、秘書とは名ばかりで、愛人であるとの話だ。元モデルだけあって、きれいなな りをしているが、私個人の感想を述べるなら、癖のある美人といったところか。 「この注釈の、ビニール・ゴム製品にアレルギーありというのは?」 気になる書き込みを見付け、私は早矢仕刑事に尋ねた。 「手塚は一部の石油製品アレルギーで、少しでも触れると、その肌がかぶれたように赤 くなるんだそうです。私は見ていませんが、寝不足だったり、体調を崩していたりする と、特に過敏になるそうで。彼女がモデルをやめた理由の一つは、これがあったみたい ですね。水着や服の材質をいちいちチェックしなければいけないモデルとなると、使う 側が嫌うようです」 「なるほど。江内の秘書という役割は、いい居場所を見つけたつもりだったのかもしれ ませんね。これからどうするんだろ」 他人事ながら詮索してしまう。事件に話を戻そう。 美子が江内と手塚の仲を知っていたかどうかは定かでない。ただ、美子も手塚も、江 内の女好きの性癖をよく知っていた。 「繰り返しになりますが、全員、アリバイなしです」 「殺されるまでの被害者の行動を、判明している範囲で教えてもらえますか」 「午前一時過ぎまでは、はっきりしています。十時過ぎからずっと、知り合いのバーだ かキャバレーだかで、大勢と飲み明かしていた。あっ、店は閉めて、個人的な付き合い で飲んでいたとの話です。手塚が午前〇時まで付き合っており、それ以降も多くの証人 がいます。それからタクシーで自宅に戻り、四時半頃まで仮眠。これは妻の証言しかあ りませんし、当の美子も夫の帰りを出迎えただけで、すぐにベッドに潜り込んだと証言 しています」 「四時半まで寝ていたというのは、どうして分かるんです?」 当然の疑問を呈す地天馬。 「仮眠を取る場合、三時間であることが常だったから、と美子は言っています。帰宅が 一時半ぐらいだったそうで」 「ふん。確実ではないと」 「そうなります。で、このあと、午前七時に出勤してきた金尾夏江に“発見”されるま で、全くの不明。何故、朝早くから幼稚園に向かったのかも、はっきりしない。恐ら く、金尾夏江の甘言に、ほいほいと出て行ったのだろうというのが、捜査本部の読みで すが……地天馬さんは気に入らないでしょうね」 「金尾夏江の名をかたった手紙で呼び出された可能性はあるんじゃないですか」 「別人が金尾のふりをして江内を呼び出し、これを殺害したと」 「江内が金尾に相当入れ込んでなければ、成り立ちませんがね」 「ええ、ええ、それはありですよ。江内が金尾夏江に執着していたのは間違いない事実 ですから」 「要するに、早矢仕刑事。真犯人を捕まえなくとも、足跡の疑問を解き明かせば、彼女 への疑いは晴れる。違うかな?」 「……足跡が強力な決め手なのは、その通りですが……」 「ひっくり返して見せましょう」 断言した地天馬。早矢仕刑事はその言葉を待っていたかのように、「ぜひ、やっても らいましょうか」と即座に応じた。挑戦的な台詞に聞こえたが、その直後、頭を下げる 早矢仕。 「誤りがあるのなら、早めに正さねばならない。これが私の本心です。お願いします よ、地天馬さん」 これには地天馬も激しい反応を示した。楽しげに手を叩くと、演説口調で一気に喋 る。 「ああ。素晴らしいね、早矢仕さん! 僕の事務所に近所に引っ越してきてもらいたい くらいだ。転勤の予定は?」 「さ、さあ? 人事のことは分かりません……」 「そうですか、残念。もしもこちらへの転勤が決まったら、知らせてほしい。よければ 歓迎会を開こう」 「はあ……」 「さて、早矢仕刑事。現場で撮った写真――足跡の写真をここへ」 自分の前の机を、指で叩いた地天馬。早矢仕刑事は準備していたのだろう、数葉の写 真を手早く取り出し、置いた。靴の裏の模様が地面にくっきりと刻まれており、よく分 かる。 「全体を色々な確度から収めた物と、個別に足跡を撮った物、それに遺体の周りの物で す。足跡を一つずつ接写した物もあるにはあるのですが、ここへは持ち出してきていま せん」 「ふん。必要が生じれば頼みますよ」 そう応えた地天馬は、早くも写真に鋭い視線を投げかけている。 「遺体のすぐそばに乱れた足跡がいくつかあるのが見えると思いますが、それは江内の 足跡です。絞殺される際に、抵抗したんでしょう」 早矢仕の示唆に、地天馬は生返事をし、やおら質問を発した。 「意外に硬そうな地面だ。もっとぐちゃぐちゃにぬかるんだのかと思っていましたよ」 「あそこの庭の土は元々硬いんです。畑の土みたいに柔らかい物だと、子供が転んでも 安全は安全でしょうが、それでは幼稚園の外の生活において、かえって子供を危険にさ らすという考え方だそうで。普段から、転ぶと痛いものだと教えてこそ意味があると か」 「なるほど、結構なことです。それで、遺体発見時の地面の具合は、どうだったんで す?」 「どうと言われても、写真にあるように……小さな水たまりがそこここにできて、全体 にじっとりと湿った感じの地面ですよ。確かに泥と呼ぶのは無理があるかもしれません が、靴で歩けば重みでへこみ、足跡は鮮明に着く」 「おおよそ分かりました。いいでしょう。当夜、雨は何時に上がったんですか」 「午前四時十分となっています」 「ふうん。案外、犯行推定時刻に近いな。――この小さな穴は、傘の先で突いた痕跡か な」 地天馬が写真の表を刑事に向け、一点を指差す。刑事は身を乗り出し、目を近付け た。 「ああ、そのようですね。杖代わりに使ったのかな。結構、数が多い……」 「被害者は傘を?」 「ええと。持って来ていなかった、ですね。自宅を車で出た江内は、十五分ほど要して 幼稚園の近くまで行き、そこから三分ほど徒歩だったようです。そう、思い出したぞ。 車の中には置き傘がありましたが、濡れていませんでしたよ」 「四時半頃に出掛けたのだとしたら、雨は上がっているから、話は合う。となると、こ の傘の跡は犯人の物と見ていいでしょうね」 「はあ、そうなります。しかし、そんなに重要ですか?」 「犯人は午前三時五十分までに、幼稚園に姿を見せた可能性が高いと言える」 「地天馬さん、それは理屈ですが、絶対とは言い切れません。空模様を見て、ひょっと したらまた降り出すかと考え、念のために傘を持って出たのかもしれない」 「素晴らしいね、早矢仕刑事。ますます気に入ったよ」 嬉しそうに手もみする地天馬。 「ここで雨は一時的に忘れましょう。あなたは犯人が傘を持っていったと認めるんです ね?」 「ん? ええ、もちろんです」 「先ほど、杖代わりに使ったのではと推測した。これも認める?」 「はい。確かにそう言いました」 「では、あなた方警察が犯人だと想定する金尾夏江の足跡の、すぐそばに傘の先で突い た痕跡が全く見当たらないのは、どういう理由からでしょう?」 「え?」 虚を突かれた様子の早矢仕刑事は、首を前に突き出した。唇をなめ、しばし考慮を重 ねた。 「それは……傘を差していたんでしょう。ああ、前言撤回だ。雨が降っているときに、 金尾は現場まで来た。これに変更します。これなら傘の跡は着かない」 「そう。そして、足跡も残らない」 「あ」 思わず出たのだろう、舌打ちの音がした。早矢仕刑事は何度も首を傾げ、再び沈思黙 考が始まる。一分近く待たされただろうか。 「こういうのはどうでしょう? 金尾夏江は雨が降っているときに現場に来て、江内を 待った。途中、雨が止んだので傘を閉じ、杖代わりにして立っていた。そして江内が到 着し、犯行に至った。その後、門のところまで、後ろ向きに歩いていった」 「何のためにそんなことを?」 「自分が善意の第一発見者であるかのごとく見せかけるため、足跡を残す……あっ、だ めですね。これだと、金尾自身が遺体のそばに居られない」 「その通り。この写真を見ると、一度着けた足跡を上からまた踏んでごまかした様子も ない」 「困ったな。じゃあ……」 つぶやいたきり、あとが続かない。名案は浮かばないようだ。 「もう一度、現場に戻ろう。一つ、実験を行いたい」 地天馬が突然そう切り出した。 「も、もしや、足跡を着けない方法を思い付かれたんで?」 「大層な方法ではないけどね」 地天馬は自信ありげに言うと、私に目配せしてきた。 「犯人は恐らく、午前四時にここで江内省三と出会う約束を取り付けたんでしょう。少 なくとも、江内を呼び出すことに自信があった」 地天馬は手を広げ、高草幼稚園の庭全体を示した。彼が立つ場所は、ちょうど遺体が あった付近だ。 その庭は、水浸しになっていた。事務長に電話で断りを入れ、外付けの水道からホー スを使って庭に水撒きをしたのである。事件当日の状況になるべく近付けるためである ことは、言うまでもない。 「犯人は約束の十分前までに着いていた。始めから江内殺害しか頭になかった犯人は、 洗濯用のロープをベランダの柵から外した。傘を差して待っていると、しばらくして雨 が上がる。閉じた傘の先が、地面に小さな穴をいくつか作った。約束の時刻に遅れるこ と五十分、江内が現れた」 「五十分も待つものか? いくら殺意を抱いていたとしても」 私はつい、口を挟んでしまった。地天馬は嫌な顔一つせず、また言い淀むこともなく 応えた。 「約束の時刻が四時だとか、江内が四時半まで寝ていたというのは、あくまでも仮定だ ということを忘れないでくれ。五十分という時間も不正確だ。ただ、真相に与える影響 はないと信じる」 「うん、飲み込めたよ。話の腰を折って悪かった。続けてくれ」 「江内は犯人に対して油断があったのだろう。アルコールがまだ残っていたのかもしれ ないな。犯人に不用意に近寄り、あっさり絞め殺された。犯人は逃走する段階に至り、 困惑することになる。このまま門から出るには、足跡を庭に残してしまう」 地天馬は塀の方を見やった。 「自殺に偽装したい訳ではないんだから、足跡を消しながら逃げるとか、足跡がはっき り残らないようにすり足で逃げるとか、あるいは自分の靴を手に持ち、裸足になって逃 げる、被害者の靴を奪って逃げる等、色々な方法が考えられる。だが、犯人はそうしな かった。多分、パニックになっていたんだと想像するよ。足跡を着けてはいけない、と 思い込んでしまったんだ。 足跡を着けずに逃げるにはどうすればいいか。ジャンプ一番、塀を飛び越え、道路や 隣の家に逃げるのは無理がある。何しろ、塀プラス生垣の幅があるからね。雨上がりの 地面は滑るため、なおさらだ。 同じジャンプをするのなら、ベランダに飛び移る方がまだ可能性がありそうだが、窓 の鍵が掛かっており、ガラスが割られた形跡もない。午前四時半から五時と言ったら、 微妙な時間帯だ。大きな音を立てたくなかったのかもしれない。とにかく、犯人はこの 手段も選択しなかった。 犯人が選択したのは――それだと思う」 地天馬は腕を真っ直ぐに伸ばし、我々のいる方角を差し示した。 「何のことだい、地天馬?」 「君の左側にある、ブランコの上に載っている物さ」 「うん? ビニールブロックしかないが」 「それだよ。一旦外に回って、持って来てくれないか。塀越しに渡してくれればいい」 使うのなら、水を撒く前に持って行けばいいじゃないかと思った。そしてその不満を 口に出すと、地天馬は苦笑顔を横に振った。 「だめなんだ。事件後、ブロック三個がその箱型ブランコの上に移動してあったことを 確かめてもらいたかったのだ」 「移動? どこからどこへ?」 「そのブロックは元は、こっちのブランコのために使われていたんじゃないか。そう考 えるのが自然だろう」 地天馬は、二連の一人乗りブランコへ顎を振った。早矢仕刑事が察しよく反応を返 す。 「言われてみれば、そっちのブランコも箱型と同じように針金で固定されているのに、 ビニールブロックを下に挟んでいませんね」 私も幸治少年の話を思い出した。 「箱型の方は、ビニールブロックが多すぎるな。下に詰めるだけでいいのが、ブランコ そのものに三つ載せてある」 「恐らく、こちらのブランコにあった物を引っ張り出し、運んだんだよ」 地天馬の言葉に、私がビニールブロックに手を伸ばそうとしたとき、刑事から肩越し に鋭い声をかけられた。 「ああ、待ってください! 犯行に関わっているのなら、指紋が出るかもしれない」 「いや、時間が経ちすぎている。事件以後、何人もの手が触れているでしょう」 地天馬が大声で言った。刑事は「それもそうか」とつぶやく。 「早矢仕刑事。日本の警察は優秀だから、きっと最初の現場検証のときに調べている さ。それに、指紋に過度の期待をしない方がいい。仮に幼稚園の関係者が犯人なら、完 璧な物証にはならない。追い詰める材料にはなるがね」 「はあ。確かにそのようで……」 私は一応、刑事の承諾をもらい、ブロック三個を抱えた。いずれも空気を入れ直した のか、焼き立てのパンみたいに膨らんでいる。 慎重な足取りで門から道路へ出、前方を注意しながら進む。もうじき塀が途切れると いう地点で、ようやく地天馬の姿を右隣に捉えた。ブロックを放ると、生垣と塀を越え て、相手の足下に転がった。 「犯人は忍者の気分だったかもしれないな。地面を水に、ビニールブロックを水蜘蛛に 見立てた」 「忍者?」 「冗談だよ。うん、ちょうどいい大きさだ」 ブロックの一つを手に取り、ぽんぽんと音を立てながら、回す。そしておもむろに、 地面に設置した。地天馬はそれを片足でしばらく強く踏みつけ、すぐまた持ち上げた。 「――よし。これを見てください」 手招きをして早矢仕刑事も呼ぶ地天馬。刑事は少し迷ったあと、「足跡を着けてもか まいませんか?」と聞き返した。 「端を通るのなら。そう、道路寄りに」 それならばと、私も引き返し、早矢仕刑事のあとに続いて、庭を横切り、地天馬のそ ばまでやって来た。 「ブロックを置いた跡だとは、一見、分からないでしょう?」 地天馬は再び自分の足下を指差した。私は目を凝らし、感想を述べる。 「跡……本当だ。全然、分からない」 「うむ。わずかに、角の線がある。薄い上に、途切れ途切れで、これは分からないのと 一緒だ」 早矢仕刑事も納得した風に言い、顎を撫でている。彼は顔を起こすと、地天馬に尋ね た。 「もしや、そのブロック三つを順繰りに使って、犯人は足跡を着けずに門まで移動でき た?」 「まず、このブランコの下にビニールブロックを挟んであったかどうかを、幼稚園の誰 かに確認してください。もしブロックの移動が、事件を挟んで密かに行われたのだとし たら、犯人が使ったとしか考えられない」 早矢仕刑事は承知すると、連絡を取るべく、外に出て行った。 「地天馬。よく思い付いたなあ。自分は全く見落としていたよ」 「まだ実験していないんだぜ。これが正解とは限らない。いや、実験が成功しても正解 とは言い切れないが」 「そうだな。刑事が戻ってくるまでに、実験しておこうか」 私はそう言うと、ブロックを三つ集め、長い辺が自分の正面に来るように、手前に並 べていった。カラフルなビニールの橋ができる。地天馬自身がやるとはとても思えない ので、自ら右足を乗せた。 「この上を歩き、通り過ぎたブロックを前に置いて行けばいいんだな。……おっと」 右足に力を入れ、左足を地面から離す。ぐらついた。慌てて左足を戻す。 「靴を履いたままじゃあ、難しいようだ」 地天馬に言い、私は革靴を脱いだ。ブロックの表面がすでに汚れているため、靴下は どうしようかと思案していると、地天馬が何故か異論を唱えた。 「靴を履いてくれたまえ」 「どうして?」 「僕が支えるから、ブロックの上に両足で立ってみてくれないか」 「それでいいのなら、そうするよ」 靴を履き直した私は地天馬の手を借り、一つ目のブロックの上に立った。支えてもら っているにも関わらず、やけに揺れる。ビニール面が沈み、バランスを取るのが難し い。 「手を離すと、転んでしまうな」 地天馬の手のひらにも汗が滲んでいるようだ。いや、これは私の汗だろうか。 「ああ。四つん這いで行くか? 服が汚れるが仕方ない」 しゃがみたい一心で提案してみた。 「頼む」 地天馬の手を頼ったまま、腰を折り、膝をつく。不安定極まりない。両手を三つ目の ブロックの上に置いたが、揺れは収まらなかった。 さらに、私はここまでやってから、重大なことに気が付いた。 「地天馬。これだと、前進のしようがないぞ。三つのブロックに乗るので精一杯だ!」 「そのようだ。まさかブロックを縦に並べた訳でもあるまい。幅が狭すぎる」 再考を迫られ、黙してしまった地天馬。私はふらつきながらも地面に降り立ち、汚れ を手で払った。 早矢仕刑事が引き返してきたのは、ちょうどこのタイミングだった。 「地天馬さん、当たりですよ! 三つのビニールブロック、奥のブランコの下にあった んだそうです!」 「結局、体重が要だった」 地天馬が確信溢れる口調で始めた。 「その後の検証により、五十キログラム未満の人ならば、ビニールブロックの上を楽に 渡れると分かった。これ以上だと、ビニール表面の張力の関係で、足が深く沈みすぎ、 どうしても無理だ」 「五十キロない人が犯人と?」 立ったまま喋る地天馬と相対する形で、幸治少年はパイプ椅子に肩をすぼめるように して収まっていた。 「だけど、それだけで犯人だと決め付けるには、無理があるような気もします。多分、 五十キロない人なんて、幼稚園に関わりのある人の中に大勢います」 「その通りだ。僕は、足跡を着けずに現場から脱出する方法を示しただけに過ぎない。 とにかく、該当者を挙げてみるとしよう」 警察が調べ上げた関係者の中で、体重五十キログラム未満に当てはまるのは、大家 心、阪口伸吾、三河章太郎、手塚理緒奈の四名。 「この中で、大家さんは身長が低く、江内を絞殺したとすると、首には下向きの痕が着 く。実際の絞殺痕はそうではなく、ほぼ平行だった」 「……」 「念のために説明を加えると、相手の後ろから首にロープを巻き、犯人は被害者と背中 合わせになる格好で身体を背負う、いわゆる地蔵背負いというやり方ならば、身長に関 係なく、首に平行もしくは上向きの絞殺痕を残すことはできる。ただし、これには相当 の力が必要だ。小柄で細身の大家さんの体力では無理だと断定せざるを得ない。 その点、同じ女性でも手塚理緒奈さんなら、背が高く、わざわざ背負わなくても要件 を満たす。ところがこの人は、ビニール製品にアレルギー症状を持っていると聞いた。 ビニールブロックでアレルギーが出るかどうかは、触れてみなければ分からないもの の、そんなリスクを背負ってまで、ブロックによる足跡隠しを実行するとは考えられな い」 「いよいよ二人に絞られましたね」 「もう長くはない。残る二名の内、三河さんは手術の後遺症により、足腰の調子が万全 でない。歩くにも杖を必要とするため、ブロックの上に乗るだけでも一苦労だろう。よ って彼も除外できる」 「とうとう最後の一人ですか」 少年の嬉しそうなつぶやきに、地天馬は黙って首を縦に一度だけ振った。 「ここで視点を変えてみるとしよう。江内が幼稚園に呼び出された正確な時刻は分から ないが、午前四時から六時と見ていい。そんな早い時刻にのこのこ出て行ったのは、夏 江さんの名前で誘われたからだ。一方、地面に残る足跡と傘の先の痕跡から、犯人は江 内よりも先に現場に着いて、待っていたと推測できる。 薄暗い早朝、幼稚園の庭の片隅に、犯人の姿を認めた江内の心理を考えてみよう。も しそこにいるのが、阪口さんのような筋骨隆々とした背の高い男性であれば、近付きは しまい。門のところを左に曲がって、シルエットを見ただけで分かるはず。『誰だ、貴 様は!』ぐらいのことは叫んでも、正体不明の相手にわざわざ近寄るのは愚行だ。 にも関わらず、現実に近付いている。それは江内にとって、待っていたのが女性に見 えたからだ」 「女性? じゃあ、最後に残った一人も」 「阪口さんも犯人ではない。これでは、容疑者がいなくなってしまう。不思議なようだ が、あと一人、関係者がいたのを思い出した。それが、君だよ」 地天馬は無感情な口ぶりで、相手を視線で射抜いた。 「僕、ですか」 「体重を教えてくれるかな」 「え、それは、確かに、五十キロないです。四十五キロぐらいですが」 少年の声は裏返っていた。名探偵から名指しをされ、すでに精神状態は恐慌を来た し、耐え切れなくなったに違いない。 「僕は、でも」 そう言った切り、口をぱくぱくと動かすだけで、小刻みに震え始めた。特に、机に置 いた腕の揺れが激しくて、机自体が乾いた音を立て始める。 「幸治君。確認したいことが数多くあるんだが、僕はもうお別れしなくちゃならないよ うだ。警察には君自身の意志で行くんだ。付き添ってくれと言うのならそうしよう」 金尾幸治はうなだれたまま、ゆっくりと席を立った。 が、すぐにまたへたり込み、泣き始めた。 以下は付け足しに過ぎない。 地天馬の推理によって見つかった真相は、すべて早矢仕刑事の手柄になるはずだった が、そうはならなかった。早矢仕刑事が幸治少年の自首を認めたためだ。早矢仕刑事は 事前に地天馬の推理を聞き、さらには地天馬の話を幸治少年が聞く場にも、密かに居合 わせたにも関わらず、である。 今度の事件でよかったことは、早矢仕刑事との再会だけだったと、地天馬は言った。 幸治少年なら髪型さえ似せれば、姉の夏江になりすませる。身長も体重も、犯人像に 合致する。何よりも、強い動機がある。 事件前夜、姉のアパートに泊まった幸治は、姉からことの次第を聞き出していた。そ して、土曜早朝に幼稚園で江内社長と会う約束をしたことも聞いた。金尾は眠れぬ夜を 過ごし、その時間が彼に決意を固めさせた。姉の代わりに幼稚園に行き、江内を殺そ う、と。 やはり夜遅くまで眠れずにいた姉の前に起きてきた少年は、喉が渇いたと言って、二 人でジュースを飲んだ。そのとき、姉のグラスに風邪薬を多めに投じた。その効き目が 出たのかどうか、夏江は眠りについたが、それだけでは安心できず、目覚まし時計の時 刻も大幅にずらした。 それから少年は、姉のかつらを探し出し、被った。さらに、姉がよく着るという赤の ジャージの上下を着込み、姉になりすました。薄暗い中、脳内を妄想でいっぱいにした 江内の目をごまかすには、これで充分だったようだ。 夏江が弟の犯行を知っていたのか、あるいはそれとなく感づいていたのかは、誰にも 分からない。 ――終
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