AWC 「階段」    時 貴斗


        
#1311/1336 短編
★タイトル (VBN     )  01/03/05  22:41  (110)
「階段」    時 貴斗
★内容
 私は振り返った。もう一度、階段をのぼらなければならないことは、
分かりきっていた。
 扉は開かない。鍵がかかっているのだ。だから、引き返すより他に選
択肢はない。
 疲れた。こんな事を何度繰り返せばいいのだろう。
 泥で汚れた革靴は今、一段目にある。
 木製の階段は古びていて、足をおろした途端くずれてしまいそうだ。
 わずかな勇気にささえられて、次の一歩を踏み出した。
「は……はは」弱々しい声が、口から漏れる。まるで魔法にかかったよ
うに、同じ事をやっている。
 笑いが恐怖となる。その恐怖が私を狂わせ、笑わせるのだ。
 不安が胸を圧迫している。心の中を真っ黒な海が満たし、一定のリズ
ムで静かな波が発生しては、岸に向かって進んでいく。
 思考がループしているような気がする。何かの呪いに捕らえられてい
るのだろうか。
 天井から下がっている、ほの暗いランプを見上げながら進む。その弱
い光が、私の不安を増強する。
 扉の外はどんな風景だっただろうか。草が生い茂る庭か、それとも、
人気のない廊下がまっすぐにのびているのか。
 私はいったい何の目的でここに来たのか、思い出すことができない。
 ゆっくりと足を上げ、薄氷でも踏むように次の段に下ろす。
 何往復したのか、分からない。百回めかもしれないし、三回めにすぎ
ないのかもしれない。太ももがくたびれていることだけは確かだ。
 進むたびに、階段はぎし、ぎしという軋んだ音をたてる。
 ようやく中央まで来た。階下の扉は開かない。階上の部屋には窓があ
る。そこから飛び降りられないかとも思うが、なぜかたどり着けない。
どうすればいいのか分からない。しかしじっとしていると、恐怖が急速
にふくらんでくるので、足を動かさずにはいられない。
 こんなふうに行き来を繰り返していても仕方がない。だが、他にどう
せよと言うのか。
 私は壁に掛かった婦人の絵に目を向けた。彼女は斜め上の老人の絵を
見るような格好に描かれている。
 一段、一段を踏みしめながら思う。美術は人に感銘を与えるためのも
のではないだろうか。しかし今は、恐ろしさを強める働きをしている。
 二つは別々の作品なのだろうか。それともペアになっているのか。
 私は横を見た。年老いた王が額縁の中におさまっている。彼は白髭を
なでながら女の肖像画を見下ろしている。
 明かりがぼんやりと照らす階段を、駆け出したくなる気持ちをおさえ、
慎重に歩いていく。
 絶叫しそうになる。誰か、助けてくれ! しかし、人が住んでいない
ことだけは覚えている。理由は分からない。
 とまどいながら、歩を進める。立ち止まってはいけない。
 ふと気がつくと、私は階段の上の、一畳もない狭いスペースにいた。
まるで途中で意識が途切れて、いつの間にかそこにいたような、嫌な感
覚だ。正面には部屋の入り口がある。廊下があるわけでもなく、建築構
造としてはやや奇異な感じを受ける。
 木の扉を見つめる。悪魔か、怪物か、異形の者がのたうっているよう
な彫刻がほどこされている。
 私は部屋に入った。中は真っ暗だ。勘を頼りにしてさまよう。ふいに、
「ふふふ」という少女の笑い声が聞こえた。もう何度も聞いているのに、
慣れることはなく、体が寒くなって鳥肌が立つ。明かりのスイッチを見
つけることさえできれば、とは思うのだが、何度来てもどこにあるのか
分からない。あるいは、そんなものはないのかもしれない。ふいに、部
屋の闇が黒さを増した。カーテンの向こうからさし込む月明かりさえ見
えない、真の暗黒だ。それとは逆に、頭の中が突然真っ白になる。ぼん
やりする。記憶があいまいになっていくような気がする。完全に消去さ
れるのではなく、半端な形で残される、そんな感じだ。外部の闇と内部
の白の矛盾する光景の中、もう一度不気味な笑い声が聞こえ、それだけ
は強く印象づけられる。私は耐えきれなくなり、部屋から飛び出し、ド
アを閉じた。
 木の扉を見つめる。悪魔か、怪物か、異形の者がのたうっているよう
な彫刻がほどこされている。
 ふと気がつくと、私は階段の上の、一畳もない狭いスペースにいた。
まるで途中で意識が途切れて、いつの間にかそこにいたような、嫌な感
覚だ。正面には部屋の入り口がある。廊下があるわけでもなく、建築構
造としてはやや奇異な感じを受ける。
 とまどいながら、歩を進める。立ち止まってはいけない。
 絶叫しそうになる。誰か、助けてくれ! しかし、人が住んでいない
ことだけは覚えている。理由は分からない。
 明かりがぼんやりと照らす階段を、駆け出したくなる気持ちをおさえ、
慎重に歩いていく。
 私は横を見た。年老いた王が額縁の中におさまっている。彼は白髭を
なでながら女の肖像画を見下ろしている。
 二つは別々の作品なのだろうか。それともペアになっているのか。
 一段、一段を踏みしめながら思う。美術は人に感銘を与えるためのも
のではないだろうか。しかし今は、恐ろしさを強める働きをしている。
 私は壁に掛かった婦人の絵に目を向けた。彼女は斜め上の老人の絵を
見るような格好に描かれている。
 こんなふうに行き来を繰り返していても仕方がない。だが、他にどう
せよと言うのか。
 ようやく中央まで来た。階下の扉は開かない。階上の部屋には窓があ
る。そこから飛び降りられないかとも思うが、なぜかたどり着けない。
どうすればいいのか分からない。しかしじっとしていると、恐怖が急速
にふくらんでくるので、足を動かさずにはいられない。
 進むたびに、階段はぎし、ぎしという軋んだ音をたてる。
 何往復したのか、分からない。百回めかもしれないし、三回めにすぎ
ないのかもしれない。太ももがくたびれていることだけは確かだ。
 ゆっくりと足を上げ、薄氷でも踏むように次の段に下ろす。
 私はいったい何の目的でここに来たのか、思い出すことができない。
 扉の外はどんな風景だっただろうか。草が生い茂る庭か、それとも、
人気のない廊下がまっすぐにのびているのか。
 天井から下がっている、ほの暗いランプを見上げながら進む。その弱
い光が、私の不安を増強する。
 思考がループしているような気がする。何かの呪いに捕らえられてい
るのだろうか。
 不安が胸を圧迫している。心の中を真っ黒な海が満たし、一定のリズ
ムで静かな波が発生しては、岸に向かって進んでいく。
 笑いが恐怖となる。その恐怖が私を狂わせ、笑わせるのだ。
「は……はは」弱々しい声が、口から漏れる。まるで魔法にかかったよ
うに、同じ事をやっている。
 わずかな勇気にささえられて、次の一歩を踏み出した。
 木製の階段は古びていて、足をおろした途端くずれてしまいそうだ。
 泥で汚れた革靴は今、一段目にある。
 疲れた。こんな事を何度繰り返せばいいのだろう。
 扉は開かない。鍵がかかっているのだ。だから、引き返すより他に選
択肢はない。
 私は振り返った。もう一度、階段をのぼらなければならないことは、
分かりきっていた。

<了>




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