AWC お題>チョコレート       青木無常


        
#550/1336 短編
★タイトル (GVJ     )  96/ 2/12  16:27  (200)
お題>チョコレート       青木無常
★内容
 山田三平は困惑していた。
 楢崎香奈といえば(株)霞コーポレーションでも一、二をあらそう、訂正、二位以
下を奈落の底におきざりにするほどの美女である。
 秘書科という肩書きも彼女の美貌と才知の前にはアクセサリー程度の効果しか発揮
しないし、かといってつんとお高くとまっているというふうでもなく、だれとでも気
さくに話せる人あたりのいい女性でもあった。
 対して山田三平はちんくしゃ小太りのさえない兄ちゃんである。
 それはそれとして、それほどの美女であるにもかかわらず楢崎香奈に恋人がいると
いう確実な情報はついぞ流れたことがなかった。
 神秘的なかげりをもつ女性の周囲にはつねに宿命として、好奇心や嫉妬に色彩りを
付与された噂の十や二十はまとわりついているもので、たとえば彼女の場合も上司や
同僚などとの不倫だの欲得ずくの関係だのといった醜聞がただよっていないわけでは
なかったが、それらよりはどうも、特定の男性はいないという情報のほうがどうやら
正しそうだとはもっとも分析的かつ客観的な意見としてとおっていた。
 対して山田三平は「使えないヤツ」のサンプルとして有名であった。
 それはそれとして、幾度となく果敢な攻撃をしかける自称他称さまざまなプレイボ
ーイたちの奮闘も功を奏したという話はまるでなく、一時は楢崎香奈はレズではない
のかといううわささえたったことさえあるのだが、それもどうやら資料課の、これは
正真正銘レズ女である古田姥子の流した誹謗中傷であるということが確認されている。
 対して山田三平は、もう二十代も後半をまわろうとしているのに童貞であった。
 もちろん、楢崎香奈と山田三平とをならべて論じようなどというもの好きはない。
当の三平自身がそうだったのだ。
 だからこそ、困惑しまくっていた。
 数かぎりない「見果てぬ夢」にやぶれてきた経験上、山田三平は無意味な幻想など
極力抱かないようおのれにいいきかせることが習い性となっていた。だからてっきり、
楢崎香奈が自分のような人間にさえじつに好意的かつ気さくに接してくれるのは、彼
女のやさしさのあらわれ以外のなにものでもないのだと日々肝に銘じてきたのである。
 ときおり見せるはにかみのような表情や好意をにおわせるような言動なども、たん
なる自分の錯覚かあるいは同情に起因するリップサーヴィスのたぐいであろうとむり
やりにでも思いこんでいた。
 それが今日、エレベータ内でふたりっきりになったときに楢崎香奈はその愛らしい
頬をバラ色に上気させながら告げたのだった。
「今夜、デートしてくれない?」
 もちろん山田三平がこういう状況にまともに対応できる道理もなかった。ひぐ、と
のどをならして一瞬だけ楢崎香奈を見つめかえし、真剣な視線が必死さをこめて熱く
自分を見つめかえしているという信じられぬ状況を確認する余裕さえなくぷくぷくし
たその顔を真っ赤に染めて下うつむいてしまったのである。
 しばらくの間、そうして山田は無言の視線をその頭頂部で必死にうけ流していたの
だが――エレベータが停止する寸前、天女のようにやわらかな香奈の手が三平のぷく
ぷくした手をすばやくとって、その内部に紙片をすべりこませてきたのであった。
 心臓ごと逆流した血液が脳天から噴出しそうな想いでふらふらしながら山田三平は、
かろうじてトイレにたどりついて個室にもぐりこみ、吐き気となってぶちまけそうな
ほどの鼓動に懸命にたえながらおしこまれた紙片をひらいて、そこに書かれている美
しい手書きの文字を目でおった。
 内容が理解できなかった。
 まるで宇宙人の通信文を読んでいるような歪曲感覚を山田三平は味わった。
『今夜八時、××プリンスホテルのロビーで』
 紙片にはまぎれもなく楢崎香奈の書体でそう書かれていたのである。
「これは悪夢だ」
 思わず山田三平はそうつぶやいていた。長年の不幸な境遇がそういう思考回路で山
田三平の脳みそを短絡してしまっていたからであった。
 その日一日は混乱しまくった三平にとってまったく仕事にならず、とんでもない失
策を一ダースばかりかましまくって上司から罵声を、同僚からは嘲笑をあびたのだが、
はたから見たかぎりではふだんの山田三平とまったく変化はなかった。
 それはともかくとして、会社を退勤してから山田は凶悪な悪夢感覚に脳髄を撹拌さ
れた状態のまま、約束のプリンスホテルにむかった。
 ロビーの位置がわからずにホテル内のあちこちをうろうろして不審がられること一
時間、ようやく目的地に到達した三平はふかふかした長椅子に疲れはてた短躯をへた
りと落としこむ。それでも約束の時間までは一時間近くあった。
 そして、ひたすら待った。
 これはなにかのまちがいでなければ、ぼくはからかわれているのにちがいない、山
田三平は何度も何度も自分にそういいきかせながらひたすら待った。何度時計を見て
も、二分以上の時間が経っていたことはなかった。
 八時五分前になったときに山田は、気が狂いそうになっていた。
 そして八時五分過ぎには、あまりの哀しさに泣きわめいてしまいそうになっていた。
 やっぱり、たんに自分はからかわれていただけのことだったのだ、と自己憐憫の重
圧に絨毯内部に埋没してしまいそうな脱力感を感じていた。
 だから、
「ごめんなさい、三平さん、仕事がながびいてしまったの。待たせちゃったわね」
 と天使のような笑顔とともに息をきらせて頬を上気させた楢崎香奈が出現したとき、
山田三平は腰がぬけて立てなくなっていたのであった。
 そんな三平の惨状をみても香奈はバカにしたようなそぶりもみせず、心配げに三平
の目を真正面からのぞきこみながらしきりに彼の状態を気づかい、あげくの果て腰が
ぬけたままどうしても立ちあがることができないと見るや、なんのためらいもなくす
るりと三平のわきにもぐりこみ、かぐわしい匂いのするその肉体をまったく躊躇なく
密着させて肩をかしてきたのである。
「レストランを予約してあるの。ご一緒してくれる?」
 十センチと離れていない超至近距離から楢崎香奈がおそるおそる、といった風情で
そうきいてきたとき、がくがくがくと人形のようなしぐさでうなずきながら三平はあ
やうく失禁してしまいそうになっていた。
 生まれてこのかた足をふみ入れたことのないような超高級レストランでわけのわか
らぬ料理を食べた。もちろん味など混沌の一語でしかあらわすことはできなかったが、
「おいしいね」
 と天使の笑顔で問いかけられてまたまた人形のようにがくがくがくとうなずいてみ
せた。
 どういう会話をかわしたのかもまったくおぼえていない。ただひとつ、
「ど、どどど、どうして、ぼぼぼぼくをさそそそそってくれたのでしゅか?」
 とモールス信号のような質問を放ったときにかえってきた彼女の反応だけは脳裏に
こ ムりついて離れなかった。
 ぽっ……と頬を染めててれくさそうに笑いながら香奈はそっと視線ゑkはずしてうつ
むき――そしてうるんだ瞳で上目づかいに三平を見つめあげていったのである。
「どうしてだと思う?」
 わ、わわわわかりませんと心中でt!'ヌもりつつつぶやいたが言葉にならず、山田はそ
の肉ゆたかな頬をぷるぷるぷるとふるわせながら首を獄右にふってみせただけだった。
 すると香奈はかなしげにきゅっとその形のよい眉をほんの一瞬よせてみせ、三平を
ぶつようなしぐさをしてみせた。
 会社では見られない、子どもっぽいそのしぐさを山田三平は夢見心地でぼんやりと
見つめた。
 そんな三平に、
「今日はなんの日?」
 わかってるくせに、とでもいいたげな、すこしすねたような口調で香奈はきいた。
 もちろんわかっていた。クリスマスとともにおのれの不遇を否応もなく思い知らさ
れる苦痛にみちた一日、バレンタインデーである。
「もう。三平さんだってチョコくらいもらったことあるでしょ」
 ゆでダコのようになってぷるぷるふるえるばかりの三平を見て香奈は、頬をぷっと
ふくらませ唇をちょんととがらせながら、それでも笑いをその端にうかべつつそうい
った。
 もちろんチョコくらいもらったことはさすがの三平にもある。今日だってムギチョ
コを三粒もらった。もらわないほうがまだましだった。
 あいかわらずぷるぷるとふるえるばかりの三平を見て香奈は真顔になった。
 そのつぶらな瞳に、涙がにじんでいるような気がした。
 気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気の
せいだ、くりかえす呪文はもはや完全に効力をうしなっていた。
 山田三平は完璧に舞い上がっていたのである。
 そんな三平に、楢崎香奈は瞳をうるませたまま、真顔でいった。
「たべてほしいの。わたしの、自家製のチョコを。三平さんに」
 ちなみに三平という名は山田三平の本名ではない。高校時代に二年先輩の篠原に強
引につけられてしまったアダ名である。高校三年間のみならず、同級生が多数進学し
た大学でもその呼び名は固定したままで、ようやくその呪縛から逃れられると安堵し
ていた入社先に一年先輩で入社していたのはやっぱり篠原であった。すでに三平の名
は本名よりも人格に癒着してしまっている。
 それはそれとして、さきの楢崎香奈のセリフ――たべてほしいの――を耳にしたと
たん、山田三平は射精していた。
 もったいない、という意識とパンツをよごしてしまったという罪悪感や情けなさと
同時に三平は、いまだかつて味わったことのない至上の幸福感にみたされてもいた。
 もう死んでもいい。本気でそう思っていた。
「たべてくれない?」
 必死の表情で問いかけてくる楢崎香奈に、山田はネジをまきすぎた人形のように壮
絶ないきおいでがくがくがくと何度もうなずいてみせたのだった。
 そして食事をおえたふたりはスカイラウンジに場所をうつした。
 レストランをあとにしてからこっち、香奈は山田の腕をとってかかえこむように抱
いて離さなかった。やわらかなまるい感触が腕から背中にかけていつまでも密着して
いた。
 もう死んでしまいそうだ。三平は本気でそう思っていた。
 最初から雰囲気に酔いまくっていたから、だされたジントニックを一ミリと消費し
ないうちにべろんべろんになっていた。
 香奈も言葉すくなに山田に密着したまま、まるでおざなりなふうに酒杯をその形の
いいくちびるに運んでいた。酒などどうでもいいという雰囲気がありありと出ていた。
 そして香奈はふいに、ことりとホテルのキーをふたりのテーブルの上においた。
 あう、とその瞬間三平は意味不明のうめきをもらしていた。
「わたしたちふたりの部屋よ」
 ねっとりとうるんだ視線が、山田三平にそう呼びかけてきた。
「ここでたべてほしいの。わたしの、自家製のチョコレートを」
 いい? と、蚊のなくような声でそうきいてきた。もちろん三平に否やのあろうは
ずがない。
 ふたりは濃密に身をよせあったまま立ちあがり、スカイラウンジをあとにした。た
どりついたさきはスウィートルーム。
 高級な重いドアはことりとも音を立てずにふたりの背後でとじられた。
 香奈は静かに鍵を後ろ手にしめる。
 簡素だが高級感にあふれた調度がそこにあった。
 テーブルの上に、なぜか何ものせられていない皿が一枚、おかれている。
「皿が、皿がありますね。あはは。あは。あはは」
 意味もなくよわよわしく笑う三平に、香奈は笑顔をかえしながらはにかみつつこた
えた。
「わたしが用意させたの。あそこに、チョコレートをおくのよ。あなたにたべてもら
うチョコレートを」
 いって香奈は、甘い吐息を吐きかけながら三平の肩に顔をうずめた。三平はもはや
気絶寸前であった。
 バスに最初につかったのは三平だった。四度、すべってころんだ。一度などはあや
うく死にかけ、頭に特大のこぶをつくった。死にそうなほどの悪寒をおぼえ、救急車
を要請しようかと本気で思案したが、根性でケツの穴まで丹念にみがきあげた。
 かわって香奈が風呂につかっているあいだ、三平は全身が性器と化していた。指さ
きでもふれられれば、そのまま枯れるまで射精しつづけたにちがいない。
 そしてバスタオル一枚のままの香奈が、微灯のもとに出現する。
 三平はまたもや腰がぬけて立てなくなっていた。
 そんな三平を見つめながら、香奈は妖艶に微笑ってみせた。
「さあ、たべてもらうわ」
 瞳をうるませながら香奈は、いった。
「わたしの、自家製のチョコレート」
 そしてはらりと――バスタオルを床におとした。
 まぶしい裸身が三平の眼前にさらけだされる。
 目がつぶれてしまいそうだった。
 頭頂から白い粘液状の蒸気が噴きだしそうになった。
 脈うつ血管の内部を激流しているのも白い粘液であった。
 よろよろと立ちあがった。腰がくだけて幾度も床にしずみこむ。はうようにして香
奈のたたずむところまで進んだ。
「思ったとおりだわ」
 至福の表情とともに、香奈もいった。
「すてきだわ、三平さん。あなたこそ、わたしの理想のひとだわ」
 ぼぼぼぼくもそうです、と三平はかすれた声でそういった。ぼぼぼぼぼくはあなた
の、愛の、奴隷です。と。
 にっこりと、天使の微笑がそれにこたえた。
 わかっていたわ、と昂揚した声音がそういった。そして、
「さあ……たべて、わたしのチョコレートを!」
 いうや否や――すらりとのびた両の肢をがばとひろげて香奈はテーブルに乗り――
 しゃがみこんだ姿勢で、くるりと三平に尻をむけた。
 いわゆる個室でのスタイルである。
 桃のような尻に、三平は視線を釘づけにされた。この尻がいまからぼくのものなの
だ――この期におよんで脳天気に、そんなことを考えていたのであった。
 尻の下には、皿があった。
 むろん、尻、皿、チョコレート、この三者をむすびつけて考えるほどの理性はいま
の三平にはまったくなかった。香奈のとっている個室ポーズを妙であると思うほどの
思考能力さえ欠落していたのである。
「さあ、見て!」
 顔だけをふりむかせながら香奈は、感極まった声音でいった。
「わたしのチョコレートを!」
「はいっ、香奈さんっ」
 三平は歓喜の絶頂をむかえながら返事をした。
 人生最良の日であることを、確信していた。
                             チョコレート――了




前のメッセージ 次のメッセージ 
「短編」一覧 青木無常の作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE