AWC     父の思い出  (竹木貝石)


        
#2930/5495 長編
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    父の思い出  (竹木貝石)
★内容

     まえがき
 私の目が見えなくなったのは数え年二つか三つの頃で、原因や病名もよく分からず、
おそらく母親の体が弱く母乳が全く出なかったので、栄養不良と外傷が重なって、だ
んだん悪化したものだろう。有名な眼科医へ長期間入院および通院していたそうだが、
その記憶は無く、物心ついた時、既に私の目は光覚盲(光しか見ることのできない視
力)になっていた。
 私の生年月日は昭和12年(1937年)8月13日で、日中戦争の初期、日本軍
による中国諸都市の爆撃が盛んに行なわれていた頃であり、この随筆は、第2時大戦
中から戦後における、私の父親に関する思い出話である。


     【1】 あばら屋
 私の生まれ故郷は、愛知県刈谷市中手町である。当時は、愛知県碧海郡刈谷町大字
小山字中手山と言い、農業と会社勤めの家が多かった。広い田畑と野原と坂道と大小
の川が流れていて、子どもたちは遊び場に事欠かなかった。田植えの頃ともなれば夜
通し蛙の合唱が聞こえ、秋には一面の虫しぐれだった。都会の騒音からは遠く、新鮮
な大気と素朴な人情に育まれ、私の幼い頃は概して平穏だった。
 幼少の頃については人の話に頼るしかないが、父は山梨県の田舎に生まれ、3人兄
弟の内、父の姉は岡崎に、弟は大阪に住んでいた。私の生まれる前に祖父母は亡くな
り、父は愛知県に移って来て、瓦屋(かわら製造業)を始めた。三河地方は良質の粘
土が豊富なので、中手山村には他にも数軒、職人を雇って、瓦製造業を営む家が在っ
た。けれども私の生まれた頃、父は既に倒産して、昼は豊田系の鉄鋼会社に勤め、僅
かな田畑を副業にして暮らしていた。父の気質が経営者に不向きだったのか、それと
も酒でしくじったのか、真相は知らない。後年、母が亡くなってからの父は会社をや
めて、2反2畝(22アール)のたんぼとすこしの畑を耕しながら、ひっそり暮らし
ていたので、私はそんな父を不甲斐ない親だと思ったものだが、今にして思えば、百
姓が父に一番合っていたのかも知れない。会社では上役に頭を下げたがらなかっただ
ろうし、瓦屋といっても多分、大名商売をしていたに違いない。今私自身、父にそっ
くりの性格になっているのに気がつく。
 私の家は、瓦造りに使っていた広い仕事場(職場と言った)が母屋で、離れ(と言
ってもごく粗末な建物だが)では、母が長年病気で寝ていた。「瓦小屋」とか「白地
小屋」と呼ぶ小さな建物が在り、瓦を焼く二つの大きな窯と炭やき窯も在って、昔の
仕事のなごりを留めていた。母屋(職場)の土間の片隅には土練機などの古びた機械
類が置いてあり、別の一角には、6畳ほどの床板をはってござを敷き、以前職人が寝
泊まりしていたというその部屋で、家族のいく人かが暮らしていた。
 のちには、広い土間一面に藁と籾糠と莚をしきつめて、周りに障子を立て巡らし、
粗末な居室を拵えたが、これはいかにもみすぼらしく、質素を第一とする父の暮らし
ぶりをよく表していた。床板などは無く、地面から10センチ足らずの高さに敷いた
藁莚の上で寝起きし、内側の壁は板や土ではなく、障子紙だった。父に言わせると、
これほど安上がりで、夏涼しく冬温かな住居はまたと無いのだそうである。
 莚の上に時々ムカデや沢蟹が上がって来たし、天井板のない屋根からは、土の固ま
りが頭の上に落ちて来た。私は自分の家庭が貧しいことをしみじみ思い知らされてい
た。


     【2】 酒飲み
 私は8人兄弟の末っ子で、兄が4人と姉が3人だった。この大家族を抱えて父もさ
ぞかし大変だっただろうとは思うが、毎晩酔っ払って帰って来ては、くだをまき怒鳴
りたてる父は、家族の者から恐れられてはいても好かれてはいなかった。典型的な家
父長方式による厳しい躾と極端な質素倹約は、当時としても行き過ぎていた。父の頑
固一徹なワンマンぶりはかなりのもので、父の持つ威圧的雰囲気は、子どもたちを極
度に萎縮させた。父の前では誰も無駄口をきかず、必要な話も満足にはできなかった。
兄弟同士楽しく遊んでいても、父の姿が見えると途端になりを静めてしまうのだった。
 父がいかに能率や合理性を説いて聞かせても、毎晩の泥酔ぶりを見ているので、子
どもたちは完全には心服せず、父が怖いからやむなく従っているに過ぎなかった。子
どもたちが成人するに連れて反抗心が増し、大抵父と1度は衝突して大喧嘩になるが、
結局一歩たりとも父を譲歩させることはできず、兄たちはいつしか家を出て行ってし
まった。父の晩年はさぞ寂しかったことだろう。
 父の何よりの欠点は酒だった。酒の為には金を惜しまず、子どもにどんな惨めな思
いをさせても酒だけはやめられなかった。酔いが回るに連れて、ろれつが怪しくなり、
声色も一変して、別人のようになってしまう。正体不明のまま道端で動けなくなって、
よその人に連れて来てもらったり、自転車もろとも溝に転落して、兄が迎えに行った
りした。
 ほろ酔いきげんの父は、飲み友達によくこんなことを言っていた。「もし俺が酒を
やめておったら、刈谷の町に、竹木銀行が立っていた。」「カカアが死んだ時にゃあ、
二人目の女房をもらおうか、それとも酒を飲んで暮らそうかと考えたが、結局は酒に
決めたというわけさ。」
 父の性格では、いくら酒をやめたからといって、銀行はおろか小さな店一つ持ては
しなかったし、また後妻をもらっていたら、私は違った意味で苦労をさせられたこと
だろう。いずれにしても父のアルコール中毒は、今から思うと決して父一人の責任で
はない。大勢の子どもを抱えての貧困・仕事の失敗・母の病と死、それらを紛らすた
だ一つの方法として、父は酒に浸るしかなかったのである。


     【3】 語録
 しらふの時の父は、頑固さを除けば愛すべき人物だったかも知れない。賭け事やい
ろ事には目もくれず、生活がだらしないということはなかった。それどころか、いく
つかの優れた特質が子どもたちに好影響を与えている。満々たる自信と潔癖感・奇麗
好きと仕事の速さ・独自の合理性と判断力、これらは父のもっとも誇りとするところ
であって、日頃私たちに向かって教え諭していた次のような言葉の端々にも、父の心
情がにじみ出ている。
 「おとっつぁんは子どもの頃から1度も親に叱られたことなどなかった。親が言う
より先に仕事をしたもんだ。」
 「もっと頭を使え。順序と能率を考えろ。」
 「俺は大学など出ちゃいないが、知らぬ漢字は一つもない。分からぬことがあった
ら皆おとっつぁんに聞け。何でも教えてやる。」
 「進学したいとはもっての他だ。そんな暇があったら、一生懸命働いて親孝行をし
ろ。早く学校を卒業し、金を儲けて、親に恩返しをせにゃあいかん。」
 「ベートーベンだかモーツアルトだか知らぬが、あんなやかましくて訳の分からぬ
音楽のどこが面白い。荒城の月と軍艦マーチが一番いい。あれほどの名曲はまたとあ
るまい。」
 「おとっつぁんがいいと言ったらいい、できると言ったらできる。何でも俺の言う
通りにしていれば間違いはないのだ。」
 「飯と聞いたら火事より急げ。さっさと食べて片付けてしまえ。」
 「うどんはツルツル、御飯はカメカメ。うどんをいちいち噛んで食べる馬鹿はいな
い。」
 「不味い物でも栄養さえあればいい。何でも『おいしい、おいしい』と言って食べ
にゃあいかん。」
 「俺はラジオの料理の時間が一番嫌いだ。第一、頭におの字を付けるのが気にくわ
ぬ。お野菜・お塩・お酢…。おすと言うのは鶏の雄・雌のことかや。そもそも何をな
んグラムだの、匙になん杯などとしちめんどうな講釈を言っているよりは、ありった
けの材料を鍋にほうりこんで、塩をチョチョッと入れて、グツグツ煮りゃあだしが出
て、このほうがよっぽどうまい。」
 「近頃の若い者は、なぜ猫もしゃくしも髪の毛を伸ばしたがるのか気が知れぬ。散
髪代は高いし、暑苦しくて仕事の邪魔になり、枕や布団が汚れて、そのぶん手間がか
かり、第一見苦しい。それに女のあの雀の巣のようなパーマネントはどうだ。せっか
く親からもらった真っ直ぐな髪を、電気で焼いてちぢらせるとは…。仕事もろくにで
きないやつが、はやりのかっこうばかりつけたがる。頭で仕事をするわけでもあるま
いに。」
 「光孝(次男)には、おとっつぁんがきっといい嫁を捜してきてやる。その時にゃ
あ、こっちの家庭の状況をあらいざらいぶちまけて、それでも喜んで来る嫁でなきゃ
いかん。おとっつぁんはのんだくれ・おっかちゃんは肺病・きじるしが居て不良が居
て、めくらが一人居る。しかし相手の嫁は、器量が良くて働き者で、気立ては優しく
パーマネントをかけていない娘だ。いまに見ておれ。ちゃんと見つけてきてやるから
な。」
 「会社から帰って来てから、自転車の泥を掃除しているようではなさけない。俺の
自転車を見てみろ。いつも奇麗で新品同様だ。雨の日にはわざと自転車を水溜りへ乗
り入れる。そうすりゃあシャバシャバシャバッと奇麗に洗えて、そのまま家へ入れば
ピカピカだ。もっと頭を使え頭を…。」
 いずれ最後には頭を使わなければならないのである。子どもたちは心の内でなんと
思っていても、父の前では一言も反論できなかった。
 父の声はじつに素晴らしく、端切れのいい関東弁が小気味よく飛び出す。一度大声
を発すれば、大器を振るわせ、ろうろうと野にこだました。
 口笛や鼻歌に併せて小まめに立ち働き、箒を手元から離したことがなかった。
 「朝光つぁん(父のこと)は奇麗好きだ。とてもやもめぐらしとは思えない。」と
か、「昔朝光つぁんが歌ったヤスキブシは上手だった。櫓の上で踊っている様子が目
に浮かぶようだ。」と近所のおかみさんたちはよく父を褒めた。


     【4】 点字用紙
 私の小・中学生中はずっと盲学校の寄宿舎に居たので、休みの度に父や姉が送り迎
えしてくれた。汽車や電車やバスを乗り継いで、家と学校を行き帰りするのは、当時
1日がかりだった。
 あれは小学2年生の春休みが終る日のことだった。その頃は第2時大戦後の物資の
不足で、点字を書く紙がなかなか買えなかった。点字用紙には良質の模造紙を用いる
が、当時めったに手に入らず、新聞紙や不用になった印刷物を数枚重ねては使ってい
た。そういう話を聞いた姉が、前の晩に、図画紙を何枚か手頃な大きさに切って、私
が学校へ持って行けるようにと包んでおいてくれた。
 さてその朝、私は父に連れられて寄宿舎へ戻ることになるのだが、父は習慣上、二
日も前に荷物をまとめてきちんとリュックサックに詰め込むことにしていた。戦後ま
もない頃のことで、交通の便は悪く、列車は超満員だったから、目の不自由な私を連
れて、大きな荷物を持って行く為には、そのくらいの準備と覚悟が必要だったのであ
る。
 私は靴を履きかけて、ふと夕べ姉が用意してくれた図画紙のことを思い出し(いや
実は忘れたふりをしていたのを姉に言われて)、大急ぎで取りに戻った。多分父が怒
るだろうと予測していたら、案の定烈しく叱責された。父としては、荷物が増える煩
わしさもさることながら、出発間際になって、余分な紙包みを持ち出してくる私の無
計画さに腹が立ったのであろう。私は私で、折角の姉の親切を無にできないし、前夜
の段階で、きちんと出来上がっているリュックサックをもう1度詰め直して欲しいと
は、怖い父に向かってとても言い出せなかった。他人にはちょっとその時の状況や心
境が理解しにくいかも知れないが、要するに私は父と姉の板挟みになっている感じだ
った。父としては普段から順序と能率を説いて聞かせている以上、私のいい加減さを
許しておけなかっただろうし、またこれから3か月の間、私を寄宿舎に預けてしまえ
ば当分一緒に暮らせず、「今この機会にものの道理を教えておいてやらねば」と思っ
たに違いない。
 父は相当烈しく私を叱りつけ、二つ三つ頭をこづいた後、泣きじゃくっている私に
言って聞かせた。
 「よし、これでよく分かったな。今後はなるだけ早目早目に、荷物を出すようにせ
にゃいかんぞよ。しっかり覚えておけ。」
 姉も自分が言い出したことではあったが、私を庇ってくれるまでには至らず、そば
で当惑していた。
 やがて父は自転車の荷物台にリュックを縛り付け、その上に私を跨がせて、自分は
図画紙の包みを小脇に抱え、自転車に乗った。途中雨が降ってきたので、カッパを着
たり傘をさしたり、なかなか大変だったが、私を寄宿舎に送り届けた後、父は一人家
路を辿りながら、あるいは帰りの酒屋で一杯ひっかけながら、繰返し後悔していたに
相違ない。
 「目の不自由な息子をあんなにも叱ることはなかった。可哀相だったな。」
 夏休みが来て私はまた家に帰り、その休みもそろそろ終りに近付いたある日、父は
兄に言い付けて、物置や棚の上から、沢山の賞状や免状の類を全部持って来させた。
 「この紙でどっさり点字紙を拵えてやろう。サア、鋏を持ってこい。」
 父・兄・姉の3人で、点字板(点字を書く道具)の寸法に合わせて、ザクザク ザ
クザク紙を切る作業がしばらく続いた。兄たちが学校でもらってきた賞状や通知票や
卒業証書は、こうして200余枚の代用点字用紙に姿を変えた。






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