AWC フクさんのいた年(一)      くり えいた


        
#2392/3137 空中分解2
★タイトル (DRB     )  92/11/23   3: 3  (198)
フクさんのいた年(一)      くり えいた
★内容
           フクさんのいた年   くり えいた

               春

 フクさんの話をしよう。昔話だ。腕立て伏せをしていたフクさんが顔
を上げた。それが僕とフクさんとが初めて眼を合わせた瞬間だった。五
分刈りの四角い頭に異様に長い顔は、まるで何も考えていないといった
格好で僕を下から上まで見上げた。バラックの道場の戸口にさっきから
所在なく佇んでいた僕は、拳を床について腕立て伏せの格好をしたまま
止まっているフクさんと真正面に顔を合わせて、ちょっときまりが悪か
った。道場には他には誰もいない。フクさんは起き上がって膝をつくと、
その膝をすべらせて僕の方へやってきた。
「見ない顔だね。入門?」
フクさんはその奇妙な長い顔と張り出した顎に似合わぬ人なつこい笑み
を浮かべて、僕に聞いた。腕まくりした汚い稽古着の袖で汗をぬぐう。
三十代前半ぐらいの痩せ気味のおじさんだ。空手をやっている人にして
はちょっと雰囲気が軽いなと思った。
「いや、いつも、ここ通りかかるんで……ちょっと……見学……」
 実際その通りだった。身体ばかり大きくて運動神経の芳しくない僕は、
こういう武道に憧れることはあっても自分に出来るとはとても思えなか
った。何となく春の宵の生暖かい風に吹かれて、いつも気になっている
ここを覗きこんでしまったというわけだ。新学期から大学に馴染めず、
友達の欲しかった僕のちょっとした気まぐれだったと思う。おろおろし
ている僕におかまいなしにフクさんは膝をついたまま、左手の机の引き
出しからごそごそ紙とボールペンを取り出すと僕の前にひろげ「名前は
ここね。学生さんかな。住所はアパートの号室まで。入門の理由の欄は
適当でいいよ……そうかあ、強くなるよ。それだけいい身体だもん。う
ん大きいね。何センチあるの……」などと一人で喋っている。
「いや、あの……まず今日は見学させてもらってから……いや、僕、身
長は結構あるけど……運動神経鈍いし……」
「一七五くらいか。待てよ、一七五の稽古着あったかなあ。あ、七千円
ね。月末でいいよ。ちょっとそこに居てね」
「あ、ちょっと待ってください、あの……」
後ろを向いてロッカーの方へ、また膝をすりすり行くフクさんを見て、
僕は口から出かけた言葉を飲み込んだ。フクさんの稽古着の膝から下の
部分は二本ともぺっちゃんこ。つまり、足がなかったのだ。

 トイレでしゃがめないほどの筋肉痛をこらえて、何とかその週の日曜
日まで逃げ出さずに道場に出て来られたのは自分でも奇跡に近かったと
思う。今日はお昼の稽古だ。道場生はいつもは十数人くらいだったが、
日曜日の今日は少年部の子供達も何人か参加して黄色い声を張り上げて
いた。ここでは帯の色で階級が決まる。恰幅のよい師範とちょっと目の
恐い柿本という指導員の二人の黒帯が並んでこちらを向いて号令をかけ
る。他の皆は帯の順に前の列の右から左へ茶色、緑色、黄色、水色、白
と整然と並ぶのだ。フクさんの帯は色の抜け落ちた茶色で最前列にいた
んだけれども、もともと道場生が少ないこともあって、真新しい白帯を
締めた僕の斜め前で、その姿がよく見えた。白帯にとっては黒帯は神様、
茶帯は超人に見える。
 実際フクさんはすごかった。例えば正拳突き。これはまっすぐ前に拳
を突き出すのだ。フクさんは奇妙な甲高い気合を入れて、本当にこれ以
上まっすぐに突けないというほどまっすぐにピシッ・ピシッっとメリハ
リの効いた突き方をする。基本稽古の時は師範の号令に従って何十本も
突くのであるが、これがものすごく疲れる。後半はどうしても腕だけ号
令に合わせて動かしているだけといった態になるし、そうやっていれば
まあまあサマにもなるのだけれども、フクさんは膝をつきながら一本一
本最期まで全力で突いているのが後ろの僕にもわかった。暇があったら
一度膝をついた姿勢で、パンチを打つ真似事をやってみるといい。いか
に力を入れにくいかがわかると思う。この後、突きや蹴りなどの十数種
の基本技を同じ様に計一時間くらいかけて続けるのであるが、どの技に
ついてもフクさんは同じだった。相手には永遠に届かないであろう蹴り
さえも、短い足を「殿中松の廊下」のように動かしてちゃんとやってい
た。
 「じゃあ、今日は例によって『ちんぽこ岩』まで走り込みに行くよ」
黒ぶちの眼鏡をメガネバンドでとめた師範が間の抜けた低い声で言った。
やっと基本稽古が終わりだ。「オスッ」と皆はめいめいに靴を履き始め
る。この「オス」というのは「押忍」と書くのだが、この世界での言語
活動の大半を占める。特に黄色帯以下の者はこの言葉さえ知っていれば
後は何も喋らなくていい。簡単だ。僕はぜいぜい息をつきながら隣のボ
ケ松の補聴器のマイクに口を近づけて「ねえ…『ちんぽこ岩』って何?」
と聞いた。僕より三ヶ月先輩の松本は耳が悪いのといつもぼーっとして
いるので皆から「ボケ松、ボケ松」と呼ばれていた。子供の頃から耳が
不自由なせいか変な発音で喋る。こんなことを気軽に聞けるのは白帯の
ボケ松だけである。
「ああ、かわのうこうのじんや。ちんちんいたいないしがあうでしょ」
どうやら川の向こうに神社があって、そこにしかるべき形をした石があ
るのが特徴らしい。民俗学の講義で聞いた道祖神のようなものかと思っ
た。僕とボケ松が遅れまいと靴を急いで履く。ふと道場の中を眼をやる
と、皆に背を向けて汗を拭き拭きロッカールームの方へ行ってしまうフ
クさんが見えた。

 春の昼下がりのこの町はどこか間が抜けている。ちょっと走れば田植
前の水田がひろがる。二年前に僕の偏差値がもう少し高いか低いかした
なら、きっとこんな所へは永遠に来ることはなかったろう。東京生まれ
の僕はこの町が嫌いだった。学校をさぼって昼過ぎに起きだしても行く
ところがない。僕が気粉れにせよここに足が向いたのも、もしかしたら
居場所が欲しかったからかもしれない。
 足の筋肉痛が走る振動に合わせてきりりきりりと痛む。勝手なもので
この瞬間は痛む足の半分ないフクさんがうらやましかった。短い稽古着
に裸足でランニングシューズはちょっと不格好だ。道ゆく人が振り返る。
母親に連れられた頭の悪そうな子供が「じゅーどーじゅーどー」と指差
すのが恥ずかしい。学校のグラウンドでは日曜日も練習だろうか、女子
高生達がラケットの素振りをしていたので、その前だけは思いっきり駆
け抜けた。ボケ松はというと、背中をまっすぐに伸ばして足を高く上げ
マイペースでほっほっほっほと走っている。僕は右手に広がる蓮華畑の
あの赤紫色の中に、ごろんと横になってタバコが吸いたかった。
 土手にゆらめく陽炎の中を抜けて一行は小さな橋を渡る。眼下の小川
がしゃらしゃら音を立てる。咽喉が渇いた。なるほど『ちんぽこ岩』だ、
あれは。こんもりと青く盛り上がった小山の木立が割れた所に色の剥げ
た鳥居があり、その横にそれはこじんまりと立っていた。根元に誰が供
えたのか子供のお菓子とたんぽぽの一輪ざしが置かれていた。少年部の
悪ガキがお菓子を棒でつんつんとつついている。鳥居の奥には上へと続
く細い石段がある。石の並びが少し悪い。
「フクさんが来るまで上で休憩ね」
息を切らした師範がそう言って石段へ先頭を切る。え、フクさんが来る
って、どういうことだろう。車椅子で来るのだろうか。それにしても皆
がこの石段を昇ってしまったら……
 上の境内は結構広かった。手入れが行き届いていない古ぼけた社と半
分壊れた賽銭箱があった。地面には子供の遊びの跡であろうか、テレビ
で見慣れたマンガの拙い絵と、「けんけんぱ」の枠が書いてあった。木
立の合間からは下の方にさっき見た川と、その向こうに町並みが見える。
初夏と言ってもいいほどの日差しだった。道場生はめいめい座ったり寝
転んだり、柔軟体操やスクワットをしている者もいる。眼の恐い柿本先
輩は独りで黙々とものすごいまわし蹴りをぶんぶん連発していた。少年
部の子供達は、鐘をがらんがらん鳴らして、神妙に柏手を打っていた師
範に一喝されたり、狛犬にまたがって何やら奇声を発したりしていた。
 その奇妙な音は下の方から聞こえて、徐々に大きくなった。何か硬い
ものが触れ合うような、かちゃんかちゃんという響きである。耳を澄ま
すと青葉の蔭の石段の方から聞こえてくる。何か尋常でないものが僕達
のいる神聖な場所に近づいてくる感じだった。狛犬にまたがっていた少
年が「フクさん来たよ」と言った。
 例の四角い角刈りの頭と長い顎が現れた。かしゃんかしゃんの音はだ
んだんに大きくなる。そして狛犬の下でボケ松としゃがんでいた私の目
の前に、フクさんの全身が立った。「立った」と表現するのは、まさに
僕の目の前に「立った」からで、例の膝をついた姿勢ではなかったのと
いうことを言いたいからだ。フクさんには足があった。ボケ松がにやに
や笑っている。
 口を半開きにしている私に気がついたのか、フクさんは自分の稽古着
の足の裾をまくって見せてくれた。それは人間の皮膚ではなくて、肌色
に塗ったプラスチックだった。上の方に膝に固定する関節のような金属
が見えた。フクさんは膝からやや下で足が切断されていたので、義足を
付ければある程度足を操れるのだ。それにしても二本の義足でランニン
グとは。そのときフクさんが手品の種明かしをするときのような悪戯っ
ぽい笑みを浮かべ、その細い目をさらに細くして、こっそり耳打ちした
言葉を僕は今でも忘れない。
 「サイボーグ、サイボーグ」
 境内で行われたのは組み手だった。「組み手」とは実際に相手と空手
の技で戦うのである。白帯の僕やボケ松や少年部は後ろで座って見学だ
った。基本の出来ていない素人が下手に真似事をすると怪我をするから
だ。ある程度基本の出来た水色帯から先輩に技を受けてもらえる。空手
の組み手というと、よくテレビに映ったりするのは、当たる手前で技を
止めるものが多いが、この道場は止めないで本当に当てるのが特徴だっ
た。随分と痛そうな特徴だが、東京にある本部の道場の方針らしかった。
ただし顔面を手で殴るのと急所を直接攻撃するのだけは厳禁だった。そ
れを許すと道場が血まみれになるからだと思った。
 緑帯の山崎さんが後輩達の技をほいほいときれいに受けて最後に自分
の技をポンと決めると、面白いように相手は転がって土まみれになって
しまう。こうやって見ていると鮮やかでほれぼれするが、数ヶ月後に自
分が転がされて悶絶すると思うと、下腹がぎゅるんと痛む。いつの間に
かサイボーグの足をはずしたフクさんが横にいた。
「あれは、ローキックといってね。相手の太モモに自分のスネを当てる
わけ。山崎君はあれが得意。才能あるね彼……稽古も頑張るし。デカち
ゃんと同じ学生さんだよ」
 デカちゃんというのは僕の事だ。例の黒帯の柿本先輩が僕を呼ぶとき
に名前を呼ばずに「そこのデカいの」「そこのデカいの」と呼ぶので、
フクさんが「デカちゃん」と言い出したのだ。僕は一七四センチだから
それほど大きい部類には入らないのだけれど、実際道場には背の高い人
はいなかったのだ。どうも背の高い人は始めから他のもっと華やかでモ
テるスポーツの方に行ってしまうらしい。僕だってもう少し運動神経が
よければバスケットボールやバレーやサッカーをやっているだろう。で
も背が高くて運動神経のハナっから良さそうな人はきつくて単調な稽古
に嫌気がさして途中で道場に来なくなることが多いそうだ。
「お、柿さんがやるよ。よく見といて。ふふふ」
今度はローキックの山崎さんと、あの眼がやくざの柿本さんがやるらし
い。師範が二人の真ん中で手を振り降ろす。「始め」の合図だ。
 山崎さん得意のローキック……が空を切る。柿本さんがすっと後ろへ
すべるように引いて手でかるく横へ流すからだ。反対の足でまたローキ
ック……が出る瞬間に柿本さんの軽い蹴りがその蹴り足の根本を蹴る。
山崎さんはバランスを失って後ろへよろめく。かと思うと柿本さんがい
つの間に移動したのか、山崎さんの肩をつかみながら後ろに廻り込み、
顔を手のひらで持って引きずりまわす。山崎さんは両手をばたばたいわ
せてもがくのだが、柿本さんは顔と肩をつかんだままで自分より身体の
大きい山崎さんをあちこちに引っ張り回すのだ。にこにこ笑いながら。
まるで子供扱いであった。
「あれね。最初にかわしたのがバックステップ。足で技を止めたのがス
トッピングね。相手を回すか自分が回るかして、ああやって敵の背後に
廻り込んで固定すればもう攻撃は届かないわけ。あとは投げようと蹴ろ
うと自由だわな」
フクさんの説明に唖然とする。ううむ奥が深い。日本古来の空手に横文
字が多いのはいささか気になるが、とにかくすごい。柿本さんは眼が恐
いだけではなかった。ようやく放された山崎さんが思いっきり連続パン
チを繰り出す。
「柿さんは僕と同期入門、会社の同僚だよ。僕よりずっと若いけど。彼
はあんなだから先に黒帯になっちゃった。本部の道場にも時々行ってる
んだ。あ、あれ、まわし蹴りね」
フクさんはまるで自分の事を自慢するかのように興奮して話してくれた
が、それどころではなかった。柿本さんのまわし蹴りである。普通キッ
クボクシングなどで見るまわし蹴りと言えば横から飛んでくるものだが、
柿本さんのは上から降ってくると言ったほうが正しかった。それも思い
切り速い腰の入ったやつが連続で来る。山崎さんは腕でブロックするの
に必死で真っ赤な顔をしていた。でもその蹴りに柿本さんはほとんど力
を入れていなかったことが後で僕にもわかった。最後のほとんど見えな
いくらい速い一発で、ブロックした腕や身体ごと山崎さんがふっ飛んで
しまったからだ。ああ何てかっこいいんだ……
「彼ね。ハーフなんだ」
「え……」


                      (二)に続く




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