AWC 紫色の自宅                 くり えいた


        
#1307/3137 空中分解2
★タイトル (DRB     )  91/11/30  18:34  (176)
紫色の自宅                 くり えいた
★内容

            紫色の自宅      くり えいた

 午後四時のプラットホームはまだ家路に急ぐサラリーマンも疎らであ
る。早退する確たる理由もないのに、タイムカードも押さずに会社を出
てきてしまった私は、暮れかかる晩秋の裸電球色の日光を背中に受けな
がら、コートのポケットに手を入れてベンチで背中を丸くしていた。こ
のところ続いている残業を今日私が放棄したとて、会社は時計の歯車に
付いた埃が落ちたように営々と動き続けるに違いない。そんな事を考え
ながらホームを忙しげに行きかう背広姿や子供連れの主婦を見ていると、
自分とは遠い世界の異星人を見るようでもある。駅向こうのデパートか
らの気の早いクリスマスソングがそれらの人々の足どりにリズムを与え
る行進曲のように聞こえる。
 タバコを何本吸ったであろうか、何度か自宅方面行きの電車を見送っ
たが、今日はそれに飛び乗る気にもなれなかった。歯車にくっついた埃
たる役割は自宅に帰ったとて同じであったからである。細君との続かな
い会話。夕食時の長男の無愛想な顔、テレビゲームに熱中する次男坊、
その姉は私が寝床で本を広げる頃に悪びれもせず帰ってきて自分の部屋
のドアをピシャリと閉めるのが、予言者でもない私にありありと見える
のは、習慣の与えてくれた歓迎されざる私の能力である。
 伸びきったタバコの灰がぽとりと落ちると同時に、反対側の線路に電
車が入ってきた。振り向いた私の目に電車とホームの屋根の隙間に浮か
ぶ赤紫色の太陽が飛び込んだ。私はそれに導かれるように、その電車に
飛び乗ったのである。
 ドアの脇に立って窓からその夕日を眺める。
 「アカイ、アカイ、夕日」
 電車は鉄橋にさしかかり、日は川の土手を赤く染める。思えば私達は
二十代の頃、この川向こうの賃貸アパートに住んでいたのだ。この土手
の上を歩いて家路に帰るかつての自分が、今窓から土手に見える点のよ
うな人影と重なった。
 気がつくと私はその駅のホームに降りていた。駅の様子はさすがにす
っかり変わっている。大手の流通企業と提携して駅の出口は広いバルコ
ニーのように改造され、広い道路を横断する歩道橋やデパートのきらび
やかな入り口につながっている。私は階段を降り、記憶を辿りながら、
川の土手の道方向へと続く横町へと入った。
 川の土手はあの頃と少しも変わってはいなかった。私は白い息を吐き
ながら、石段を昇り終えると枯れ草色の土手に立ち尽くした。行く川の
流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。日は落ちて空は半分紫色、
後の半分は深い紺から黒のグラデーションに一箇所銀色に抜けたような
三日月である。その紫色の方向にかつての我が家があった。私はそうす
ることが当然であったかのように、紫の方角に向かって土手沿いに歩き
始めた。
 友人の医者に聞いた話であるが、彼の受け持ちの入院患者で痴呆とな
った老人が、病院から突然姿を消した。保護されたと通知のあった交番
は原宿の交番だったそうである。老人が原宿に何の用事がと思われるだ
ろうが、そこには昔軍関係の寮があったそうである。おそらくその老人
が送った人生の中で一番生きている充実感のあった時代がその寮で過ご
した数年間だったのであろうと友人の医師が言ってたが、この土手を歩
いている今の自分にはその老人の気持ちが何となく分かるような気がし
た。今日の行動は私の痴呆の初発症状かもしれない。私はポケットから
手を出し背中を伸ばしてかつて歩いたその姿勢を思い出し思い出し、足
どりをわざと軽くしてみた。こうやって歩いていると、あれからの長い
年月が本当の事なのか、今歩いている自分が本当なのか空の紫や濃紺が
混沌としているように、判然としなくなってくる。風の匂いは夕餉の匂
い、川向こうに見える工場の煙突までも昔のままである。
 石段を降りる。甘い匂いがする。あっ、と思った私は路地の明かりの
方向に歩を進めた。その懐かしい匂いはトタン屋根の民家を改造した小
さな露店から漏れていた。まだやっていたのか。家庭というものを持っ
てまだ間もなかった私は、その店で餡のたっぷり入った今川焼きという
か太鼓焼きというかそのお菓子をときどき買って帰ったものである。そ
して小さかった娘がもったいなそうに頬張るのを楽しく眺めたものだが、
その度に細君は「甘い物は控えさせているのに」などと苦々しく笑みな
がら小言を言うのであった。あの細君の何とも言えない笑顔を私はもう
何年も見ていない事に私は今この店の前に佇みながら気がついた。
 菓子を焼く禿げ上がった老人は見覚えがあった。あれから少しも歳を
とっていないように見えた。老人は上目遣いに私を見上げたが、別段気
にする様子もなく夕刊をめくりながら煙草をふかしていた。
「おじさん」
 私は懐かしくなってそう呼びかけてみたが、老人はにこりともせずま
た上目遣いに私を見た。その無愛想さが私にはまた懐かしかった。
「いくつ?」
 彼がしわがれた声で聞いたので、私は当惑した。別に今、この太鼓焼
きを買うつもりはなかったのだ。すこしこの老人と話がしたくなっただ
けだったのである。
「ふたつ」
 私は自分でそういいながら、二十年前の習慣がまだ自分に残っている
事にいささかの驚きを覚えた。細君と長女にひとつづつである。息子達
はまだ生まれていなかった。
 まだ手に持つには熱いような紙袋を受け取りながら、これをどうした
ものだろうかと考えた。家に帰る頃には冷たくなっているだろう。まあ
いいか、帰りに土手の上で私が食べればよかろう。この二個の重みがぴ
ったりくるほど私は空腹であった。
「おじさん、私は昔ここでよくこれを買って帰った者ですよ。覚えてら
っしゃらないと思いますが」
「そうかい」
 老人の顔には何の感動もなかった。私はちょっとがっかりしたが、そ
の顔を見てちょっと悪いと思ったのか店に背を向けた私に老人はぼそっ
と言った。
「寒くなったねえ。お客さん」

 私は土手の方には戻らなかった。紙包のぬくもりが私をかつて暮らし
たアパートへと向かわせた。そのアパートが残っているかどうかも分か
らないのに。
 アパートはあった。別段古びてもいなかった。私はそれを当然の事の
ように、二階への階段を軽やかに昇った。変わっていない。何もかも変
わっていなかった。渡り廊下の欄干に肘を付いて私は回りの風景を見渡
した。隣のアパートの赤茶けた壁もそのままである。ここには時間とい
うものが流れていないかのようであった。私は満足だった。来て良かっ
たと思った。自分の生まれた田舎の夢はよく見るが、盆暮れに帰省する
たびに変わって行って、夢に出てくる田舎はもうどこにもないのである。
田舎と私とはずっと昔に枝分かれしたまま、その分岐点以前に帰る事は
もうどうしてもできないのである。
 窓からは灯が漏れている。煮物の匂いがする。私はドアの前に立って
中で生活を営む赤の他人の若夫婦を思いながら、その匂いを胸一杯に吸
い込んだ。ふと表札を見て笑ってしまった。私たち一家と同じ姓だった
のである。

 私の名字はさして珍しくはない。それだけだったらただの偶然の一致
として帰途についていたろう。しかし私がもう一つぎょっとしたのは、
ドアの脇にある子供用の三輪車だった。サドルの上に描いてある稚拙な
マンガの絵に見覚えがあったのである。
 私の頭に思いも寄らないある仮説がさっきから徐々に広がっていた。
そして私はその仮説を実証する手段をもう右手に握りしめていた。私は
鍵穴に自宅の鍵を滑り込ませる。そして右方向にゆっくりと力を入れた。

 こちっという手ごたえを右手に感じたとき、私は自分の仮説が正しか
った事を知った。そしてそれは考えていたほどの驚きでもなかった。
 家にはその家の匂いというものがある。ドアを開けた私は、その匂い
を知覚したとき私のこの行為は不法侵入には当たらぬであろうことを直
感した。ガラス戸を開けて出てきたのは私の長女であった。太鼓焼きを
もったいなそうに頬張るであろうあの娘であった。
 私は包みを娘に手渡すとその小さい体を抱き上げた。その姿が玄関の
鏡に映る。その鏡に映った娘を抱く男の顔は己の可能性を信じていた頃
のものであった。
「また、買ってきたのね」
 苦々しげに微笑む妻の顔がガラス戸の向こうに見えたとき私はいたず
らっぽく笑った。

 翌日、会社はいつも通りだった。朝アパートから出かける時には少し
期待をして土手を線路方向に歩いたのだが、電車に乗り、着いてみると
会社はいつも通りだった。トイレの鏡で見る自分の顔のしわも白髪も窓
際課長補佐のそれであった。昨日の早退の言い訳は難なく済み、仕事も
いつになくはかどった。自宅からは何の連絡もなかったようである。構
わない、私はちゃんと「自宅」に帰っているのであるから。その日も私
は何のためらいもなく紫色の土手を歩いて「自宅」へ帰った。
 そんな会社と「紫色の自宅」との往復が何回続いたであろうか、相変
わらず細君からは会社に何の電話もなかったし、またこちらからも掛け
てみる気もしなかった。このままの方が私には良かった。不思議なこと
ではあるのだが、この安らかな生活がほんの微かなバランスの上に成り
立っている時空の気まぐれのような気がして、何か行動を起こすことが
私には恐かった。いつまで続くのかわからなかったが、このままで良か
った。

 その日は久しぶりに残業で遅くなった。北風の吹きさらす土手の上を
歩きながら私はここへ来た時と同じ銀色の三日月を見た。空はもはや紫
色ではなく、抜けるように遠い遠い漆黒だった。私は星を数えながら土
手の石段を降りた。例の老人の営む太鼓焼き屋が見えた。相変わらず老
人は仏頂面で太鼓焼きを焼いている。ちらっと目が会ったので軽く会釈
をすると、老人はそのままの顔で軽く頭を動かしただけであった。あれ
から何回か私はこの小さな店の客となったが、今日はもう遅い、娘も歯
を磨いて寝ているであろう。店の横にある街頭の蛍光灯が切れかかって
青白い光を不器用に点滅させていた。

 私はいつものように階段を昇り、鍵を開け、妻と娘が寝ているといけ
ないのでそっとドアを開いた。いつもの匂いである。しかし私の目にま
ず入ったのは男物の革靴だった。それはただの革靴ではなかった。それ
は遠い昔私が就職祝いに両親から贈られた懐かしいものだった。ガラス
戸の向こうにはいつものように明かりが灯っていたが、その微かな明か
りで私は玄関の鏡に映った白髪混じりの男を見た。私は再びドアをそっ
と閉めた。

 土手下の小店は店じまいの最中だった。私は鉄板の掃除をする老人の
前に立ち、小銭をポケットから出して言った。
「ねえ、まだ残ってないかい」
老人は別にうれしそうな顔もうるさそうな顔もせず言った。
「あるよ」
「じいちゃんは若い頃何になりたかったんだい」
私はおよそ太鼓焼き屋と客とのやりとりとはかけ離れた質問をしていた。
老人はそれを別にいぶかる様子もなくしばらく押し黙ってから答えた。
「飛行機乗り・・・お客さん、いくつ?」
「五つ」
 私はちょうど手に馴染む温かい紙包を受け取ると老人の口元に金歯が
覗いた。
「家族が増えたんかい」
 私は老人の笑ったのを初めて見た。





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