AWC 『春雨の中の美幸』ー秋本 88・4・30


        
#981/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (FXG     )  88/ 4/30  15:28  (104)
『春雨の中の美幸』ー秋本 88・4・30
★内容
 昼から空模様があやしくなったので、洗濯物は早めに取り込むことにした。
まだ少し湿り気があったが、カッターシャツなんかは乾いていたし、厚手の木
綿類は例によって応接室につるすことにした。彼女の夫は部屋の中に洗濯物を
干すということに、いささか不満な様子なのだが、彼女のそんなら乾燥機買う
てくださいの一言で以後、口に出しては云わなくなった。美幸は今年37歳に
なる家庭の主婦である。
 今朝はめずらしく夫が坂下の公園までジョギングに出かけたので、そのスエ
ットパンツなんかが、応接室にぶら下がっている。それにしてもこのジョギン
グには閉口なのだった。目覚ましが鳴っても自分で起きたことがないし、かと
云って、「お父ちゃん、今日は行かんと?よかと?よかとやね!」と念を押し
て起こすのをやめたりするとナンデ起こさんやったと後で文句を云われる始末。
走るなら走るで毎日やるか、ちゃんと自分でスケジュールを立てるかすればい
いのだが、全くの気まぐれだから手に負えない。随分と腹が出てきているので
本人もやる気はあるようなのだが、この調子では効果の程はあまり期待出来そ
うにもなかった。
 (まったくやる気がなかとよりマシかもしれんし)
 そんな気持ちがあるために、渋々嫌な役を引受けている。それに昔はそれで
もけっこうスラリとした体格だったので、かなわぬとは分かっていながらも、
若干の期待がないでもなかったのだった。高校三年の時、彼女の夫は軟式野球
で全国大会まで出場し、副主将だった。同じ高校でその時二年だった彼女はだ
から、その活躍ぶりを知っている。それにしても一日一日の積み重ねの時間と
いうものはある意味では残酷なもので、思い出の中では当然そうあるべき若か
りし頃の夫の姿すら、まるで始めから腹の出た中年太りの男であったかのよう
に感じさせてしまっているという現実があった。

「ただいまあ」
応接室の楢材のテーブルの上に洗濯物を広げてアイロンをかけていると、玄関
を勢いよく開ける音がして娘の礼子が高校から帰ってきた。
「おかあちゃん、おかあちゃん!」
 呼ぶ声が聞こえた。
「ここ!」
彼女は入口の方に顔を向けて返事をした。
「おかあちゃん、昨日の黄色のワンピース洗濯しとってくれたあ?」
制服の上着を脇に抱え、ネクタイに手をかけた格好の礼子が飛び込んで来た。
「どこ行くとね」
ネクタイを引き抜きにかかっていた礼子の手が一瞬止まった。
「・・チカんとこ」
「何でもよかやろ、それやったら」
「ダメ!どこにあっとお」礼子は心配そうにキョロキョロと視線を移す。アイ
ロンがけの手元にはないし、かといって部屋の中にぶら下がってもいない。
「洗濯機の中たいね」
「ええっ!」礼子が悲鳴にも似た大声をあげた。
「あんたが悪かとやろ!アイスクリームなんかくっつけて来るけん」
その後の会話は怒鳴り合いであった。
ワンピースは一旦、洗濯し終わって外に他のと一緒に干していたのだが、取り
込む時によく見たら、チョコレートの染みが少しばかり消えずに残っていた。
だからそれだけ二度洗いにかけたのだった。
結局、いくら騒いでも着れないことに変わりはなく、礼子はジーンズにセータ
ー姿で走るように出ていった。
 何故それほどまでにあのワンピースにこだわるのか。疑問がわかないでもな
かったが、それを云っても礼子はまともに応えようとはしなかった。
誰か好きな男の子でもできたんじゃないだろうか。間違いがなければいいが。
「ホントにチカちゃんとこに行くんやろね!」
これが彼女の最後の台詞で、そして娘の礼子のそれは沈黙であった。
 アイロンがけを終わり、洗濯物を片づけると、そろそろ夕食の準備にかかる
時間になった。買い物に行かなくては。
 しかし、そう思っていた時、電話のベルが鳴った。
「もしもし、浜村さんのお宅ですか」
「はい、そうです」
「美幸さん?」
「・・ええ」
彼女は突然の男性から、しかも、美幸という名で呼びかけられたことに戸惑い
を覚えてしまった。
「美幸さんでしょ。高島です。御無沙汰しています」
「・・浩司さん?」
それは遠い思い出の人であった。
 話というのはとりとめもないもので、何年かぶりで藤の花を見る機会があっ
て、それで円宗寺の藤だなを思い出したと高島は照れくさそうに話したのであ
った。それだけの話であった。でも、それだけで充分だった。あとは思い出が
語ってくれる。ずっと昔の淡い恋の思い出の一つであった。
 彼女は受話器を置くと、キッチンに戻り一旦買い物籠を手にとったが、その
まま椅子に腰掛けて20年の時を越えた。それは積み重ねのない時でもあった。

『ちょっと円宗寺に寄ってきますー美幸』
「おかあちゃんは、えらい遅かな」
「うん」
「何しに寺に行ったんか、おかあちゃんは」
「知らん。帰ったら、その紙が置いてあったとやもん」
「雨が本降りになってきよったぞ。礼子、お前、おかあちゃん迎えに行け」
「何でえーもう帰って来るやろ」
「なんでもよかけん、傘持って迎えに行け!」

円宗寺の藤だなは昔と同じ、白と紫の花を境内一杯に咲きほこらせていた。
美幸は坂の途中を早足に登っていた。もう少しでわが家であった。
礼子もあの頃のわたしの歳になってるんだと美幸は思った。
雨に濡れないよう買い物籠を小脇にしっかりと抱え、それでも額に流れる雨粒
を払おうとはしなかった。春の雨がこんなにも爽やかなものだとはー忘れてい
たものが一時に訪れてきたような思いの美幸であった。
「あっ、おかあちゃん」
角を曲がると礼子が傘をさして立っていた。
「ずぶ濡れやなかね。はい、傘」
「ありがと、迎えに来てくれたとね」
「うん。おとうちゃんが行けってウルサカとやもん」
「へぇぇ、おとうちゃんが・・」
浜村家の玄関が見えてきた。
「おかあちゃん」
「うん?」
「おかあちゃんの名前・・美幸なんやね」
雨がひとしきり強く、降り出した。
「・・バカ云うとると、スキヤキ食べさせんよ」
「わっ、スキヤキぃ!」
礼子が大声をあげたのを合図にでもしていたかのように、美幸は思いっきり玄
関の戸を開けた。それから呟くような小さな声で「ただいま」と云った。
                           【終】




前のメッセージ 次のメッセージ 
「CFM「空中分解」」一覧 秋本の作品
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE