AWC 百の凶器 3   永山


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#1098/1158 ●連載    *** コメント #1097 ***
★タイトル (AZA     )  18/01/21  20:37  (500)
百の凶器 3   永山
★内容                                         18/01/28 21:07 修正 第3版
 読書会の会場は、メインハウスの集会所が当てられた。靴を履いたまま、皆で大きな
テーブルを囲み、会議めいたことのできるスペースだ。
 読書会の序盤は、長所の列挙で始まり、穏やかに進んだ。基本的に、物語の進行に沿
って意見を述べる形式を採る。なので、柿原が見付けた第三の密室トリックに関する疑
問は、だいぶあとになる。
「誉めてばかりもつまらん。ここいらで、小さな爆弾を投じるとするか」
 そう切り出したのは、三年の橋部。部長の小津が公平を保つためなのか、普段に比べ
ると発言数が少なく、大人しい。代わって橋部が、盛り上げ役を買って出た形だ。
「この作品に限ったことじゃあないんだが、名探偵は興味のある依頼が来ると、割と無
警戒に、ほいほいと出掛けていくよな。絶海の孤島とか名もないような山奥の集落とか
交通の便が悪そうな豪雪地帯とかへ」
「様式美の一つじゃありませんか」
 村上が軽く手を挙げてから発言した。
「閉鎖状況で事件を起こすためには、まず閉鎖状況そのものを作り出さなければいけな
い。そのための手口はありきたりで使い古された物が多いけれど、現実にある状況なん
ですし」
「ストップ。悪いな、副部長。言いたいポイントはそこじゃあないんだ。名探偵の行動
に問題があると思う。全部が全部とは言わないが、名探偵ってものは探偵能力に優れ
た、有名人だろ? そんな希有な人物が、おいそれと探偵事務所を留守にしていいもの
かね? 難事件の解決を依頼する人々が、殺到するかもしれないのに、名探偵がいない
んじゃあ、困ってしまう」
「それは、連絡が取れるようにしておくことで」
「果たして連絡が取れる状態か? 多くの場合、閉鎖状況と外界との連絡はつかない
か、ついても会話できるぐらいで、事件が起きたから帰ってきてくださいと要請されて
も、名探偵は帰るに帰れないことがほとんどだろうな。なんたって、閉鎖状況なんだか
らさ」
「……確かに」
「要するに、名探偵はいかなる理由で、この依頼を選択し、他の依頼が来る可能性を無
視したのかってこと。拘るのであれば、その辺も描いて欲しいと思う訳よ、俺は」
「たとえば、どんな風に描いてれば満足するんでしょう?」
 戸井田がタイミングよく尋ねた。この辺で橋部自身の解決策を聞いてみたいのは、確
かにある。
「そうさな。まず、依頼者が名探偵の身内とかかつての恋人とか、感情で動いても不思
議じゃない場合だ。論理や理屈とは真逆だが、これこそが名探偵にも人間らしいところ
があると示せる。二つ目は、ま、理想なんだが、きっちりとした根拠があって、数ある
依頼の中からこれを選択したっていう展開だな」
「そこまで分かっていたら、早く行って、事件の発生そのものを食い止めろよ!ってな
りません?」
 村上が聞き返すと、橋部はあっさり認めた。
「だよな。だから、あんまり事細かにやると、おかしくなるか。切迫性・緊急性を比べ
て判断した、というレベルでとどめておくのが、妥当かつ現実的かもしれないな。ここ
で時間を取るのもなんだから、三つ目で最後な。三つ目は、俺のアイディアメモにある
ネタで、いずれ推理小説の形にしたかったんだが、暇がないので、ここで公開するとし
よう。名探偵こそが犯人で、依頼があったことをこれ幸いと、島なり何なりに乗り込
み、殺人を犯すんだ。ポイントは、依頼自体は偶然で、名探偵はいつかあいつを殺して
やろ
うと気長に待つ構えだったという点だな、うん」
 こんな具合にして議論は進んでいき、あっという間に一時間半が経過した。
「三時にはまだ間がありますが、区切りがよいので休憩を入れるとします」
 小津と村上が相談して、そう決めた。三十分間は自由で、三時にコーヒーなど飲み物
と菓子を用意するから戻って来るように、そこからまたぼちぼち始めようということに
なった。

 午後三時になると、スケジュール通り、皆が三々五々、メインハウスに戻って来た。
「まだ来てないのは……小津さんと犬養さんですか」
 お茶の用意をした湯沢が、テーブルを見渡して言った。
「犬養はいつものことよ。ちょっと何かあると、化粧直しをするから、支度が遅い」
 村上はそう応じながら、食堂にいる顔ぶれをざっと見た。
「柿原君、二人を呼んできてくれる?」
「かまいませんけど、犬養さんもですか。色々と支度しているところを、男の僕が呼び
に行くと何だか嫌がられそう」
「大丈夫大丈夫。甘い物には目がないから、早くしないとなくなるとでも言えば飛んで
くる」
 柿原はそれならばと了解し、席を立った。玄関の手前で、壁に掛かる地図に目をや
り、コテージの位置を確かめる。メインハウスからの距離は各コテージで大差ないが、
コテージ同士を横につなぐ道はないため、意外と面倒かもしれない。方角さえ確実に分
かれば、林の中を突っ切ることも不可能ではないだろうが、実行に移すには地図が大雑
把すぎた。
 外に出た柿原は、少し考え、時間が掛かる恐れのある女性の方を先にすると決めた。
犬養に声を掛けておいて、そのあと小津のところへ向かう。この順番の方が、逆の順番
よりも時間の節約になるはずだ、多分。
「犬養さん、そろそろお茶の時間です」
「え、もう準備できたの?」
 ドア越しに元気のよい声が返ってきた。慌てる様が容易に想像できる。
「早くしないと、お菓子がなくなるかもしれませんよ」
「それはないわよ〜。分かったわ。すぐ行くから、君は先に戻って、食べ尽くされない
ように見張っておいて!」
「そうしたいところですが、このあと、小津さんを呼びに行くので」
 中からまた反応があったが聞き流して、柿原は元来た道を戻り、改めて小津のコテー
ジを目指す。呼んでくるように頼まれてから、9番コテージに着くまで、小走りでも十
分強を要した。
 息が少し切れ気味だ。整える時間を取る。最後に深呼吸を一つして、傷に影響が出な
いようドアを軽くノックした。
「小津さん、コーヒーブレイクですよ」
 しばらく待ったが、返事がない。再度、ノックし、耳を凝らしたが、室内からの応答
は聞こえなかった。
「小津さん? 小津部長?」
 三度目はドアを肘で強めに叩き、声のボリュームも上げた。そうして今度は耳に手を
当て、様子を探る。それもなお、反応はなし。
「おかしいな。コテージに戻ると言っていたのに。寝てます?」
 小声で呟き、一歩下がって敷石を降りる柿原。眠っているのなら、もっと大きな音を
立てれば目を覚ますだろうが、あまりしたくない。
 どうしよう……と、無意識の内にノブを持つ手に力を込める。すると、ノブは簡単に
回った。考えてみれば、一軒家ではないのだから、在室中であろうと鍵を掛けるとは限
らない。開いてしまったものは仕方がない。失礼を承知で、柿原は中を覗いた。
「部長、起きていますか……」
 問い掛けに対する返事を期待するのを、柿原はやめた。コテージが無人であること
は、明らかだった。例の厚手の靴下が五本、衣装ケースに仕舞われることなく、ベッド
脇にぽつんと放置されている。
 敷石には靴があるのに、不在とはおかしい。柿原はそこでふと思い当たった。
(小津さんは午前中、長靴を履いていた。外の見回りが終わったあとも、そのまま行動
をしていて、確か、昼ご飯のときも読書会のときも長靴履き。読書会終了後にまた長靴
で作業をするつもりだったのなら、履き替えるのが面倒になっていた可能性はある。つ
まりは、今も長靴でどこかに出ているとしたら。部長として責任感の強い小津さんが、
まだお茶の時間とは言え、遅刻するとは考えづらい。まさか、何らかのアクシデントで
動けなくなっている?)
 そこまで思考が行き着いたものの、どこを探せばいいのか、咄嗟には浮かばなかっ
た。みんなに声を掛けて、一緒に探す方がいい。そう判断して、ドアを閉めた。
 だが、道を引き返す前に、乱れた足跡に気が付いた。非常に分かりにくいが、若干湿
った土と落ち葉の上に、足跡がどうにか見て取れた。模様もはっきりしないが、サイズ
は小津のものと考えておかしくない。それとは別に、比較的整然とした同じ足跡も見付
けたが、こちらには傍らに蝋の滴った痕跡が、ぽつんぽつんと付属している。トイレの
ある方角と9番コテージの間を往復したようだった。多分、昨晩の内に小津はコテージ
を出て、用足しをしたのだろう。
 皆に知らせる前に、乱れた方の足跡を追ってみよう。柿原は急いだ。その追跡行は、
すぐに終わる。キャンプ場にある木々の中でも、特に太くて背の高い木の裏に回ると、
そこに小津がいたのだ。膝を折り、幹に左半身からもたれかかった姿勢の小津は、柿原
が来た方向へ顔を向けていた。苦しみが張り付いた表情だった。ズボンの左ポケットか
らこぼれ落ちたと思しきマッチ箱が半ば開き、マッチ棒が散乱している。助けを呼ぼう
と携帯電話を探ったのだろうか。小津は今回の合宿旅行に、携帯電話を持って来ていな
かったようだが、普段の習慣が出たのかもしれない。左手は空を掴み、右手は何故か右
足に履いた長靴に添えられていた。
 と、このような冷静な観察は、あとになってのこと。リアルタイムには、柿原は息を
飲み、転がるようにして小津のそばへ駆け付けた。後ろに回り、背中をさすってみた
が、表情は微塵も変わらない。その鼻の下に指をかざし、息がないことを知ると、柿原
は急いで立ち上がった。そして立ち上がる勢いのまま、ありったけの声で叫びながら、
メインハウスを目指して走り出す。
「みんな大変だ! 救急車!」

 実際には、救急車を呼べなかった。携帯電話の電波状態が悪く、つながらなかったの
だ。
 同時並行的に小津へ救命措置が施されたが、効果は上がらず、既に事切れていた。
「だめだ……亡くなっている」
 橋部が絞り出すように言った。
 死亡はまず間違いなかったが、それでも病院に運ぼうという意見が出た。救急車を呼
べないなら、自分達の車で送ればいい。
「待て。一応、変死、だよな」
 橋部が他の八人をじっと見回した。反対意見は出ない。死亡原因が分からない上、野
外で亡くなったとなると、変死としか言えない。
「だったら、なるべく動かさない方がいいだろう」
「でも」
 反発したのは、村上副部長。さっきまで脈を取っていたその指を自ら擦り合わせなが
ら、言葉を続ける。
「このまま放置は嫌です。どこか――9番コテージに安置するのはどうでしょうか」
「じゃあ、警察や救急は呼ばないのか」
「そんなことはありません。呼ぶべきです。電波の届く場所まで車で行くか、いっそ、
車で下まで降りて、近くの病院に知らせたっていいかもしれません」
「ふむ。行くのは誰が行く?」
「それは……副部長の私と、第一発見者の柿原君が妥当じゃないでしょうか」
 橋部はこの村上の見解を否定はしなかったが、全く別の角度から光を当てる発言をす
る。
「万々が一を考えて、三人で行くべきだと思う」
「どういう意味です?」
「俺がミステリに毒されているだけもしれないが、犯罪の可能性も考えておくべきじゃ
ないかという意味だよ」
 一瞬、場がしんとする。コンマ数秒後に、ざわつきが一気に広がった。
「小津さんは殺されたと言うんですか、橋部さん?」
「断定はしない。だが、否定もできない。それはみんなも同じじゃないのか?」
「確かにそうですが、しかし」
 二人の会話が、やや感情的な熱を帯びてきた。それを見て取ったのか、湯沢が言葉を
挟んだ。
「それで橋部先輩。三人で行くべきというのは、どんな理由からですか」
「飽くまでも仮の話として聞いて欲しい。殺人が起きたとして、九人の内の二人が別行
動を取る。その二人の内の一人が犯人だったら、次はやり放題じゃないか。ましてや車
に乗ってこの場を離れるのなら、楽に逃げられる」
「橋部さん、やっぱりミステリに毒されていますっ」
 湯沢ではなく、村上が反応した。
「連続殺人を前提にするなんて、どうかしています」
「仮の話と言ったろ。最悪のケースを想定してるんだよ、こっちは」
「連続殺人が起きるほど、険悪なムードがミス研内にあるとでも?」
 より感情的になっている村上を、同学年の沼田が黙って制止に入った。村上は冷静に
戻り、口をつぐんだ。が、村上が間違っているとは言えない。客観的かつ常識的に判断
すれば、橋部の思考の方が特異だと言えよう。村上を除いた二年生、戸井田と沼田が相
談して、方針を提示する。
「とりあえず、小津さんはコテージ9番に運び、安置することで決まりとしましょう。
車は、橋部さんが二人を選んで、行ってもらえますか」
「分かった。その前に、責任者というか代表者を確認しておこう。この合宿旅行は二年
生に代替わりしてからの企画なのだから、小津が亡くなった今、村上さん、君が代表者
になる。そこのところの自覚を持っておいて欲しい」
「分かりました」
 意外とすっきりした顔つきで、素直に受け入れる村上。切り替えが早いようだ。
「そういうことだから、村上さんはこちらに残るべきだろうな。二年と一年から一人ず
つ、男女も一人ずつを選びたいから……戸井田と関さん、いいか?」
 当人からも含め、異存は出なかった。唯一、湯沢が挙手して、「病院へ行くんでした
ら、柿原君を連れて行って、治療をしてもらった方がいいと思うんですが」と提案し
た。
 柿原本人は、部長の死に衝撃を受けて、自分の怪我のことなんて吹き飛んでしまって
いた。思い出してくれた湯沢には感謝だが、この状況下で、治療を受けている余裕があ
るのだろうか。
「警察や救急がここへ急行するってときに、一人だけ病院に残って治療を受けられるも
のなんしょうか」
「治療を受けること自体は問題ないが、あとで変に勘繰られる恐れはあるかもな」
「余計なことを考えないで、一緒に来ればいいわよ」
 関が言った。どうやら時間経過を気にしているようだ。携帯電話のディスプレイに、
しきりに目線を落としている。
 四人目として柿原が乗ることが決まりかけたが、「ちょっと待って」と村上からスト
ップが掛かった。
「残る男手が、真瀬君だけになってしまう。小津さんの体格を考えると、運べないかも
しれない」
「あ、そうか」
 結局、出発に先立って、小津を9番コテージへ運び込むこととなった。遺体とその周
辺の様子を、何枚かの写真に収めてから取り掛かる。怪我人である柿原を除く男、橋部
と戸井田、真瀬の三人でうまく持ち上げ、慎重に移動し、コテージのベッドへ安置する
ことに成功した。
「靴――長靴はそのままでいいのかしら」
 女性で唯一人、コテージ内に入った村上が、ベッド回りを整えたあと、誰ともなしに
聞いた。橋部が判断を下す。
「かまわないだろう。発見されたときの状態に、可能な限り近い方がいい」
「じゃあ、落ちたマッチ箱や入口のところにある靴もそのまま、あと、このコテージの
鍵も部長が身に付けてるはずですが、そのままと言うことで」
「ああ。――そうだ、ここの施錠も頼むよ。金庫に、合鍵があったよな」
 橋部は村上に確認を取る。
「あります。このあとすぐやっておきますから、橋部さんは早く、知らせに行ってくだ
さい」
 こうしてようやく、柿原を加えた四人が出発できることになった。その間際、副部長
の村上から、こう頼まれた。
「発見するまでのことを、なるべく克明に思い出しておいて。事件であってもなくて
も、必要になるはずだから」

 だが、柿原が病院で治療を受けることはなかった。そもそも、車は病院に行くどころ
か、山を出られなかったのだ。
「え、吊り橋が落ちた?」
「いや、多分、落ちてはいない。大量の土砂に埋まっていて、全貌は見えないが、通れ
ないことだけは間違いない。土砂は人為的に崩されたんじゃなく、自然災害のようだ」
 先々日までの大雨で、近隣の山々が大量の水を含み、その内の一つが耐えきれずに土
砂崩れを起こした。運悪く、XW大学ミステリ研が通ってきた吊り橋に土砂が直撃、一
部が埋もれた。詳細は分からないものの、不通となったのは厳然たる事実だ。悪いこと
に、吊り橋のある地点でも電波は不充分でつながらず。ミステリ研の面々は、道・電波
ともに遮断された状況に置かれてしまった。
「向こう側に人が通るのを待ったんだが、誰も来ない。仕方がないから、戸井田のラジ
オでニュースを聞いてみた。入りはよくなかったが、断片的な情報を集めると――消防
などへの連絡はとうに済んでいるものの、下の方でも土砂崩れで道が塞がれた箇所があ
り、復旧までは数日から十数日かかる見込み、だとさ」
「他に、他に道はないのですか」
 犬養が気負い込んで聞いた。答は分かっていても聞かずにはいられない。そんな体
だ。
「ない。強いて言えば、畑を含む人家が隣接してるはずなんだが、どちらの方角に行け
ばいいのか、詳しいことは分からない。分かったとしても、かなり距離があるらしい
し、林の中の獣道みたいなルートを突っ切る形になる。慣れていない俺達では危険だ」
「そんな。ここに私達が閉じ込められていると、外部に知らせないと、大変なことにな
りますわ」
 犬養の語調が、徐々にヒステリック気味になる。それを今度は村上が宥め役に回っ
て、抑える。
「大学側に合宿の届けを出しているから、事故が報じられれば、大学が動くわ。だか
ら、いつまでも知られないなんてことはあり得ない。単なる想像だけど、早ければ今日
中に、遅くても一両日中には」
「それは楽観視が過ぎるかもしれないぞ」
 橋部が異を唱える。村上は黙ったまま、聞く態度を取った。
「連休だってことを頭に入れておかないといけない。職員達も人間だからな。クラブ活
動の届けの内容をいちいち記憶してる訳ないし、日に一度、部活動が無事に行われてい
るかチェックするシステムがあるはずもない」
「それでは、三泊四日の予定が過ぎるまでは、気付いてもらえない可能性もあるという
んですね?」
「むしろ、そっちの方が可能性高いかもな。楽観的な見方を示して期待させておきなが
ら、がっかりさせるより、悪い目が出ることを考えておく方が、精神的にもよかろう」
「そう、ですね。ということだから、犬養さん、もう少し辛抱が必要かもしれないわ」
「……やむを得ませんね」
 そんなやり取りが行われる横では、湯沢が柿原の怪我のことを心配していた。
「治療、行けなくなっちゃったのね。今の具合は?」
「興奮してるせいか、痛みはほぼ感じない。逆に、出血の量は、ちょっとぶり返してき
たかも」
「巻き直そうか?」
「ううん、いいよ。時間そんなに経ってない。しばらくは放って置いて、固まるのを待
つのがよさそうな気がしてきた」
「様子見ね」
 話しているところへ、沼田がノートの切れ端のような紙を持って来た。一枚ずつ、柿
原と湯沢に渡す。
「記憶が鮮明な内に、今日のことを書き出しておこうってなったわ。特に柿原君、あな
たの証言は重要になるかもしれないから、頑張ってよ」
「事件になると決まった訳じゃないんですから」
「たとえ事故や病気でも、その直前までの小津部長の行動を掴んでおくのが肝心なんじ
ゃないの。書く物がなかったら言ってね」
 理解して、柿原も湯沢も、他の部員達も記憶の呼び起こしに努めた。
(橋部先輩に倣って最悪のケースを想定するとしたら、小津さんは誰かに殺され、犯人
は僕らの中にいる場合か)
 柿原は、思い出した事柄を箇条書きにしながら考えていた。
(殺人事件と仮定するなら、誰が犯人たり得るんだろう……? 死因が不明だから、殺
害方法も分からない。でも、小津さんが何かを飲んだり食べたりした形跡は、小津さん
の身体にも、遺体を見付けた周囲やコテージにもなかったよなあ。ぱっと見だけで、じ
っくり調べられた訳じゃないけれども。三時からおやつってタイミングで、その前に何
か食べるとも思えないし。毒物の線は薄いかな? じゃあ何なんだ。刺し傷や絞めた痕
は見当たらなかったし、溺死も違う。服が濡れておらず、着替えさせた痕跡もなかった
から)
 柿原は気になることがふと浮かんだ。近くで筆記している湯沢に尋ねる。
「ねえ、小津さんをコテージに運んだよね。そのあと出発したから詳しくは知らないい
んだけど、鍵は間違いなく掛けた?」
「えっと、村上さんが掛けたはずよ。鍵も村上さんが持ってる。あ、少し違った。小津
さんが使っていた鍵は穿いていたズボンの右ポケットに入っているのを確認後、そのま
まにして、施錠は合鍵でしたんだったわ。村上さんが管理してる合鍵の束で、その合鍵
はメインハウスにボタン入力式の金庫があって、そこに仕舞ってるって」
「それならひとまず安心か」
「え、何の心配をしてるの」
 柿原は、最悪のケースを前提に、もし殺人犯がいるのなら、遺体に何かして証拠をな
くそうとするかもしれない、という考えを伝えた。安心としたものの、先輩を疑うので
あればまるで意味がないのだが。
「鍵だけだと不安だから、ノブや窓に、ウルシの蔦でも巻き付けておこうかしら」
 こんな大変なときだったが、面白い発想だと感じた柿原。秘密裏にそのセッティング
ができるのであれば、案外効果があるかもしれない。
(さて……殺人だとしたら、僕が見付けるまでの過程以上に、午後二時半から三時まで
の間、誰がどう行動していたかが肝心になってくる。たった三十分の間隙を縫って、殺
人を成し遂げる。普通に考えるなら、相当困難なはず。だって、あの休憩は予定になか
ったのだから。犯人は、急な変更に見事に対処して、殺人を成功させたのかもしれな
い)
 想像を巡らせていると、小津の部屋や持ち物を調べたい欲求が起きてきた。事件か否
か不明だし、警察すら来ていない現時点で、それはまずいだろうと自制を掛ける。
(でも……部屋を見るだけなら、いいんじゃないかな? 現場は9番コテージじゃな
く、外なんだ。あとでチャンスがあれば、橋部さんか村上さんに頼んでみよう)

 小津の死亡という緊急事態により、読書会は中断したまま、終了となり、その後のイ
ベントも取りやめになった。
「みんな、さっきは変な言い方をして悪かった」
 明るい内に食事を摂りたいという希望が複数名から出て、メインハウスでの早めの夕
食となった。レトルト食品がメインとなったその席で、橋部が村上ら後輩を前に、頭を
下げた。突然の行為だったので、皆、戸惑っている。戸井田が聞いた。
「ど、どうしたんですか、いきなり」
「ひょっとしたら事件の可能性もあるんじゃないかと言ったのは、救急や警察にすぐ連
絡が付くと思っていたからで、こんな風に閉じ込められると分かっていたら、言わなか
った。疑心を煽る形になったのを詫びたい。本当にすまん」
「誰も思ってませんよ、そんなこと」
 戸井田が即座にフォローを返し、他の者からも「そうですよ」「きっと、事故か病気
ですって」と声が上がる。
「そう言ってくれると救われた心地だよ。村上さんにも謝る」
「私ももう気にしていません。ただ、小津さんについて話をするのでしたら、実際的な
事柄を話しませんか」
「賛成する気はあるが、たとえばどんな?」
「事故か病死をしきりに言っていますが、外から判断すると、事故には思えません。か
といって、小津さんが何か深刻な病気を抱えていたという話も、少なくとも私は聞いた
覚えがないです。誰か、聞いたことのある人は?」
 食堂をぐるりと見渡し、反応を待つ村上。約三十秒が経ったが、誰からも肯定の言葉
は出来なかった。
「見るからに健康で、元気だったもんな」
 ようやく出た発言は戸井田から。嘆息した彼の脳裏には、思い出が蘇っているのかも
しれない。
「運動のできる人で急死するタイプがいると聞いた覚えが……スポーツ心臓とか」
 柿原は、耳で聞いただけのうろ覚えの知識を口にした。全然詳しくないのに敢えて意
見を出したのは、議論を転がせていきたいという意図もあった。
「いや、スポーツ心臓は違うでしょう」
 即座に否定の声を上げたのは村上。
「持久力が求められるスポーツ、たとえばマラソンなんかの選手で、それもレベルの凄
く高い人が、稀になることがあると読んだわ。小津部長は、それには当てはまらない。
そもそも、スポーツ心臓自体は病気じゃないし」
「あの苦しそうな表情は、でも、心臓か呼吸が急に止まったみたいに見えました」
 思い出しながら発言を続ける柿原。ドラマや漫画でそういう絵面を何度となく見た記
憶がある。あの絵が現実に即しているのであれば、小津部長は心停止か窒息で亡くなっ
たことになる。
 そういった見方を柿原はみんなに伝えたが、決定打がない。次に議論に乗ってきたの
は、真瀬。
「仮に他殺だとして。窒息死や心停止に見せ掛ける方法って、薬物ぐらいしか思い浮か
ばない」
「そんな薬物を入手できる?って話になるじゃない」
 沼田が呼応する。
「今の私達には、無理でしょ。そりゃあね、死ぬ気になって盗みでも何でもやるってい
うなら、可能かもしれないけれども。そこまでして、部長を死なせたい動機のある人、
いる? いないよね」
「動機は外からは分からないこともあるから、何とも言えないが、やっとのことで手に
入れた薬物を凶器にするほど覚悟を決めた奴は、傍目からでも多少の緊張感が伝わって
きそうなもんだな」
 橋部が肯定的に言った。他殺ではない方向で結論を出したい気持ちが表れているのか
もしれない。とは言え、楽観的な見方を打ち出したあと、万々が一、第二の犠牲者が出
るようなことにでもなろうものなら、責任を問われる。そういった思いも残っているの
か、橋部は慎重だった。
「寝るときは、コテージの鍵を内側からしっかり掛けとけよ。第三者が敷地内に潜んで
いて、事件を起こした可能性、なきにしもあらずだからな」

 コテージに戻った柿原は、まずハンカチを取り込んだ。出入り口の庇に洗濯ばさみを
使って下げておいたのだが、想定外の事態を前に、完全に忘れていたのだ。日が落ちて
しまったせいか、ハンカチは冷たく、まだ湿っぽさが残っているような気がした。仕方
がないので、もう一度、庇に掛ける。
 それから、ドアの鍵を確かめる。手応えがあった。無意識の内に施錠していたよう
だ。橋部の注意を思い返す。安心してコテージの中に歩を進める。
「外部の人が侵入した可能性は、ほとんどないような」
 ドアを閉めて施錠すると、そうつぶやいた。黙考に入る。
(仮に殺人なら、傷や痕跡の見当たらない殺害方法から推して、恐らく計画的な犯行。
わざわざキャンプ場まで密かにつけてくるだけでもご苦労なことなのに、さらに、こん
な不便な状況下で殺害するなんて。逃げるときも、隣接する田畑には電線が巡らされて
いるから、かなり注意深く逃走する必要があるはず)
 同時に寝床を整える。手の怪我をかばいながらだったので、時間を要した。
(その点、内部犯と仮定すれば、尾行も逃亡も必要はない。ただ、わざわざキャンプ場
で殺す不自然さというのは、変わらないけど、今朝の小津さんは少し調子が悪そうだっ
たから、犯人は今なら殺せると考えたかもしれない)
 だから犯人は非力な女性、とはならない。小津は体格がよく、ミステリ研の中で体力
面でかなう者はいなかったと言っていい。
(それにしても、動機は何なんだろう? 小津さんを殺したいほど恨んだり憎んだりし
ている人がいるとは思えないし、お金の貸し借りがあったとも聞かない。部の方針で対
立していた人なんてのもいない。強いて挙げるとすれば、六月の読書会で戸井田先輩と
意見が食い違って、激しい議論になったこと。それと、新入生歓迎の犯人当てかな)
 六月の読書会で、戸井田は課題図書の機械トリックに関して難を述べた。課題図書を
高く評価していた小津は必死になって反論するも、機械に強く実際的な知識を有する
分、戸井田優勢のまま幕を閉じた。その直後、小津が「専門ばかにはかなわん」と吐き
捨てるように呟いたのが、戸井田には気に入らなかったらしく、少しの間、尾を引いて
いたようだった。学園祭やキャンプに来てからの様子を見た限りでは、とうに仲は修復
したものと思えたが……腹の底で考えていることを他人は窺い知れない。
 新入生歓迎の犯人当てとは、文字通り、新入生歓迎イベントの一つで、新歓コンパの
前に部員自作の犯人当てショートミステリが配布され、期限内に犯人を当てようという
もの。創作は二年生以上で書ける部員が持ち回りするシステムで、今回は沼田の担当だ
った。が、私用でどうしても無理ということになり、急遽代わったのが小津。新入生歓
迎とあって易しめの問題作りを念頭に書くのが習わしであるが、小津は、本人の弁によ
ると急だったせいで匙加減を誤った。ある意味、難しく、また別の意味で易しすぎてし
まった。つまり、小津が用意した筋道を通って答に辿り着くのはかなり難しいが、比較
的簡単に思い付く別解がある、という作品になっていたのだ。
(あの作品のロジックそのものはよかった。ただ、僕ら新入生が、別解でばんばん当て
たから、小津さんが他の先輩方からやいのやいの言われたんだよね。そのあと、お酒の
入った席で、小津さんが冗談交じりか悔し紛れか知らないけど、「今年の新入生は、人
数は多くても、頼りない。ミス研部員なら両方とも当ててくれ」なんて言ったから、一
瞬、空気が悪くなった。でも、村上先輩が取りなしてくれて場は収まったし、一ヶ月ぐ
らい後に、小津さんが短編の傑作を仕上げてきて、みんな参りましたってなって、恨み
っこなしになった)
 どちらもミステリの健全な楽しみ方の範囲に収まっており、殺人に発展するとは全く
思えない。
(他にあるとしたら……前の晩に聞いた、あれかな)
 柿原はあることを思い出していた。橋部と小津が交わしていた会話を。
(何て言ってたっけ。『皆が見たらどん引きする恐れのある物』っていうニュアンスだ
った、確か。秘密めいた会話だったし、ひょっとしたら、動機に関係しているのかもし
れない。部員の誰かに関する秘密とその証拠、とか)
 他に動機が浮かばないだけに、この考えはいい線を行っているのではないかと思えて
きた。
(二人の会話だと、みんなに見せるつもりがなくはない雰囲気だった。ということは、
他人からすれば大した秘密じゃない。けれども、当人にとっては重大な、たとえばとて
も恥ずかしいような事柄なのかな)
 ここまで脳内で想像を膨らませた柿原だったが、やがてかぶりを振った。取っ掛かり
に乏しいため、これでは妄想推理の域を出ない。かといって、直接、橋部に質問するの
も躊躇われた。
(この考えが仮に正解だとしたら、橋部さんから事実を教えてもらった時点で、僕も狙
われる? 一方で、橋部さんも当事者の一人として、小津さんが殺された動機に勘付い
ているかもしれない。動機に纏わる質問をしてきた僕を警戒する可能性、なきにしもあ
らず)
 閉じ込められた現状では、より慎重な判断が求められる。
(橋部さんに質問して、真実を話してもらえる確証が得られるに越したことはないけれ
ども、100パーセントは難しい。少しでも確率を高めるには……僕も小津さんから、
話を部分的に聞かされていたってことにしよう。盗み聞きしていたと話すより、ずっと
印象がいいはず)
 悪くないアイディアに思える。折を見て、橋部に質問をぶつけることに決めた。

 時計を見ると、六時二十分だった。
 朝を迎えた。柿原の内では一日前のわくわく感が嘘のように消えて、暗雲がどんより
と垂れ込めているような心持ちだった。皮肉にも、実際の天候は劇的に回復に向かって
いるようだ。雲こそ浮かんでいるが、青空が期待できる。
「とりあえず、無事に目覚めたことを喜んでおこう」
 独りごちると、柿原はベッドを離れ、コテージの窓から改めて外を窺った。見通せた
光景に、人の気配は微塵もない。物音も自然のものを除けば聞こえなかった。ここを出
た途端に襲われる、などという心配はしなくていいだろう。
(橋部さんに質問するのに、今はまずいかな。朝が強い人じゃなさそうだし、時間もあ
まりない。全員の無事を確かめるのが先か)
 明言された訳ではないが、食事などの生活に密着したスケジュールは予定通りのは
ず。二日目も集合時刻は七時。コテージを出るにはまずまずよいタイミングだった。
 ドアのノブを回したとき、手に痛みが走った。そうだった。小津の死のおかげで、怪
我を忘れていた。右の手のひらを見ると、包帯には赤色が浮かび上がっていた。どうし
ても右手を使ってしまい、治りがここに来て足踏みしている。
(……巻き直してもらおう)
 不意に思い浮かんだ。同時に湯沢の顔も脳内スクリーンに映る。
(いや、別に、彼女にしてもらわなければならないことはないんだけど。ハンカチ返す
の忘れてたから、会わなきゃいけないんだ、うん)
 部屋を横切り、ドアを開けて吊したハンカチを取る。乾き具合にOKの判断を下そう
として、ふっと気が付いた。
「おかしいな」
 独り言から首を傾げる柿原。その目は、ハンカチの端に焦点を当てている。四隅の一
つ、洗濯ばさみで摘まんでいたのとは正反対の角。そこに、赤茶色の染みがあったの
だ。
(昨日の夜は暗くて気付かなかったとして、それにしても変だ。洗い落としたつもりだ
ったのに。触ったときに、僕の血がまた付いた? いや、注意していたからそれはない
……と思うんだけどな)
 染みは小さなもので、血をたっぷり吸った蚊を叩き潰せばこんな感じになるかもしれ
ない。しかし、今の季節、この一帯に蚊はいないと聞いた。
(他の昆虫か小動物の仕業かなあ? うーん)
 釈然としないまま、これでは今日もハンカチを返せないじゃないかと思い当たる。
(こんなことになるんなら、火に当ててでも乾燥させておけばよかった。というか、こ
れ、血だとしたら、もう手遅れじゃない?)
 弱った。漂白剤は確か残っているはずだが、今から洗っても落とせるだろうか。とに
もかくにも、行動を起こそう。できることなら、ハンカチの持ち主に知られない内に、
対処したい。

 そうはうまく行かなかった。
 小津の死で神経が高ぶっている者が多かったのか、皆、起き出していたのだ。せめて
柿原が昨朝と同じぐらい早めに起きていたら、違っていたかもしれないが。
「あれ? ハンカチ、返してくれるんじゃないの?」
 柿原は胸に抱くようにしてハンカチを持ち運んでいたのだが、湯沢にあっさり気付か
れた。立ち止まって、訳を話す。
「――ということで、どうやら僕が不注意で、また汚してしまったみたい」
 そうじゃないと思っているが、そういうことにしておく。湯沢の顔を見ると、苦笑い
を浮かべていた。しょうがないなあという声が聞こえてきそうな表情だ。
「分かった。あとは私がやる」
「え、でも」
「いいから。そもそも、怪我の治りきっていない人に、手洗いさせるのが間違いの元だ
ったのよ」
 ハンカチを取り上げられてしまった。柿原の口が「あ」という形になる。その視線
で、湯沢のどこか無理をしたような笑みを発見した。
(努力して、明るく振る舞っているのかな)
 小津の死が事故であろうと事件であろうと、はしゃげる状況にないのは間違いない
が、沈んでばかりもいられない。自分達も閉じ込められているのだ。見通しが立たない
不安を一時的にでも払拭するには、普段通り・予定通りの行動を取るのがよいのかもし
れない。
「じゃ、じゃあ、お願いします。ハンカチ、ありがとう」
 柿原は礼を言って、さらに深々とお辞儀した。
「どういたしまして。それよりも、手の具合、悪そうなら、また巻き直そうか」
「……うん。でも、食後でいいよ。手を動かすと、どうせまた血が滲むだろうから」
 あとでしてもらうことにして、朝食の準備をできる限り手伝う。と言っても、湯沢で
はなく、真瀬のフォローに回る。今朝は温かい飲み物をと言う話になり、火をおこす必
要があるのだ。

――続く




元文書 #1097 百の凶器 2   永山
 続き #1099 百の凶器 4   永山
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